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2017年09月04日20:19

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人生観の変化

世の中は苦しみだけだと
考えた時もあった。
その頃は苦行中だった。
自分がいまわしかった。
先頃まで、身に染み込んだ筋肉質に、口惜しかった。
ある人は昔の人は、鍛え方が違うと言った。
その言葉に救われた。
無邪気な頃は、苦もあれば楽もあると言った。
しかし、苦辛を嘗め、浮っついた調子乗りの言葉だと思った。
苦しみは苦行の時、圧倒的で絶対的だ。
それが真実だと思えてしまう。
仏教を学ぶ事になり、
やはり苦しみから始まった。
何かもやもやした疑問があったからだ。
なぜ?これはどうして?
それは同時に、どうしたら?どう捉えたら?
という疑問でもあった。
今、色々な事が片付いて、改めて思うに、
苦しい中の努力はもたらす。
幸せも、その外に伏して窺う悪しきもある。
単純に陰陽とは言えない。
苦しみの次に幸せがあるなら、苦しみの中の努力が実を結んだのだ。
幸せの次に不幸があるなら、幸せで驕ったのだ。
大事なものをないがしろにしたりしたのだ。
他にも事件や事故もある。
思わぬ落とし穴だ。
ところで仏教の指す苦しみは、
二つある。一つは快楽にまみれ欲望が怪物のように牙を剥くこと。
もう一つが苦行をして、肥ったり痩せたりを繰り返し、時間を無駄にする事。
この二つは愚かさを言う。
これに対して、
仏教は、欲望の門を制せよ。五感の門を閉じよ。
瞑想に時間をとり、戒を保て。等、実践する。
そして、根源的な貪愛、怒り、愚痴から解放されるべく
修業をするのだ。
今、怒り少なくとも、分かる。
環境や周囲の人による。
怒りは心を焼く。長く焼く事もある。
愚痴で自ら暗くなる。
道理も見えなくなる。
そして、貪愛は強い。
性にも食にも、物にも、人にも、
勝ちも負けも理想も正義も。
この程に、心という魔宮を思う。
ここから完全に抜け出した方がいる。
解脱者、仏陀だ。
とまあ、ここまでにしておこう。
私は仏教によって立ち直り、
また仏教を努力したことが、未来へと実を結んだ。
そういう事が言いたかった。
変化というものでもある。
しかしありがたいと思います。
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