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2017年01月24日17:02

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書き方、課題小説

 暗証番号が思い出せない。買ったばかりのピカピカの自転車が人のいないローカルな駅の壁の横に立てかけてある。今夜は特別に寒い。

 単身赴任だった。明らかな左遷だった。部下をかばって部長に逆らったのが悪かったのだ。報復人事だ。そうか、あのバカ部長。バカのばを八と読ませて、いや、違う。そうじゃない。八じゃない。
 自転車は、駅の脇の金網に繋がれている。単身赴任して来た当初はバスで通っていたのだが、最終バスがあまりに早く、それで自転車を買ったのだった。そして、自転車さえあれば、と、酒を飲んだのだ。この駅から会社までが四駅、酒を飲んだのは、さらにその向こうに四駅も行ったところの駅にある居酒屋だった。安居酒屋はそこにしかなかったのだ。それが悪かった。今夜は飲んで帰ることが出来ると、嫌なことばかりの毎日に少しばかりの楽しさを見つけ、それに浮かれていたのだ。最終バスも最終電車もなくなっていた。こんなことなら女房の言う通りに、会社のある街にアパートを借りるべきだったのだ。女房。そうだ。女房の誕生日だ。女房の誕生日。思い出せない。そもそも私は女房の誕生日など覚えていたことがあるのだろうか。そういえば、去年も、誕生日を忘れて叱られたのだ。あれは夏のことだった。八月。やはり最初の数字は八かもしれない。いやいや、自転車を買ったのは昨日だ。今夜思い出せない女房の誕生日を昨日覚えていたとは思えない。
 寒さに指先が凍りつきそうだった。震える指先でダイヤルを合わせるが、何しろ、暗証番号の記憶がまったくないのだ。合わせるにしても、やりようがない。
 駅舎の電気が消えている。都会にいれば二十四時間明るい駅が、ここでは消えるのだ。周囲も暗い。会社のある駅はこの地方にしては大きいのだが、それでも、深夜にやっている店はない。そこよりも、さらに四つ分ローカルなのだ。明るいのは自動販売機だけだ。
 落ち着こう。缶コーヒーだ。熱い缶コーヒーで身体と心を、いや、頭を温めるのだ。血の巡りが悪いのに違いないのだ。自分が決めた番号、しかも、決めたのは昨日のことなのだ、それを思い出せないはずがない。
 暗い駅前をトボトボと歩き、明るい自動販売機を目指した。こんな時の、自動販売機の呑気な音楽や音声は心に響くと懸念していたが、まったく無音だった。急に寂しくなった。今時、都会では無音の自動販売機が珍しい。
 ガチャリと落ちた貧乏な響きの音が缶コーヒーの不味さを予感させる。手にすると、ぬるい。ぬるいのだ。この寒さの中でぬるいコーヒー。自動販売機の缶は熱くて持てないほどではないのか。私は自分の不運を呪った。思えば、私はいつだって不運だった。大学受験の朝、家の前の新聞紙に足を取られてころんだのだ。志望校はそれで落ちた。受験の日に滑ったのだから当然だった。
 そうだ。受験だ。私は年号の記憶が得意だった。年号を言語化して覚えるのだ。参考書などにないような年号も自分で言語化して覚えたものだった。年号だ。私は信長が好きだったので、それに纏わる年号をしばしば暗証番号に使っていた。一五三四。これだ。違った。安土城。いや、本能寺の変。関ケ原は家康だから違う。日取り坂。道玄坂に狸穴坂、違う、坂は関係ない。歴史の知識などとっくの昔に抜けていたのだということを思い知った。
 ぬるいコーヒーは開ける気もしない。鞄に入れた。歩いて帰るには遠過ぎる。暗過ぎる。寒過ぎる。
 不運と言えば今の会社だ。二流大学出なので贅沢は言えない。それでも、私は広告宣伝業務に就きたかったのだ。そして、それを募集していたのだ。しかし、やらされたのは営業だった。厳しいノルマもあった。それを乗り越えて来たのに、この仕打ちだ。会社は成績よりも人間関係を重んじているのだ。バカな会社である。会社。そうだ、会社の電話番号。本社の番号なら忘れるはずもないし、こんな支社なら本社の番号など予想されない。予想されない、と、そう思ったところで自分の名刺に本社の番号もあることを思い出して、それは止めたのだった。
 いっそ、あの時、会社も辞める決意をすればよかったのだ。単身赴任を薦めたのは女房だった。おかしい。思えば、この数か月の女房の行動はおかしい。男だ。男が出来たのだ。今頃は、私が無理してローンを組んだマンションで別の男と温かい鍋でもつついているのに違いない。嫌、ポトフだ。日本酒に鍋の私と違い女房はワインでポトフなのだ。そして、男はその趣味に一致しているのに違いない。電話で確かめようか。
 電話。そうだ、電話でタクシーを呼べばいいじゃないか。電話。かじかんだ手がスマホの反応を鈍らせる。スマホにも暗証番号が必要なのだ。かじかんだ指先が数字に触れることを拒否している。スマホの暗唱番号は〇〇四〇だ。〇を「お」と読むのは普通だ。重ねた〇だが、こちらは零で「れ」と読む。四は「シ」だ。最後の〇は少しひねってある。子の刻の零時からとった。つまり「俺死ね」だ。自転車も同じにしたのだった。
 暗証番号は思い出した。間違いないはずだ。しかし、自転車に乗る気がしなくなった。
 結果、忘れているのは暗証番号ではなく、帰るべき家だと気づくまでにずいぶんと遠回りをしてしまったようだった。帰るべき家ではない。だからといって、どこに行けばいいというのだろう。

 思い出した暗唱番号をつぶやきながら、私は、とぼとぼとあてもなく歩き出してしまった。向かっているのは家のようでもあり、家でないようでもある。もう、どうでもいい。

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