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2015年06月10日13:32

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電子書籍ビジネスの一歩(06)

 あまり古いことは知らないが、少なくとも明治時代ぐらいからは、文化を支えたのは新聞であり、本であり、雑誌だったように思う。そのために、映画やテレビというものにさえ活字メディアの影響が色濃く出ているように筆者は思うのだ。
 たとえば、型に嵌るというのがある。新聞は長い間、その型を変えなかった。本や雑誌には、いくつかの型があるが、それさえ四角であるという型には嵌り続けて来たわけだ。
 表現の仕方、見る者に対する記号のようなものも、この型に嵌っていたようなところがある。
 電子書籍というものを製作するときにも、筆者は、この型を利用しようとしている。いや、この型に捉われてしまっているのである。
 電子書籍は、製作側から言わせてもらえば、随分と不自由なメディアである。目次の型を変えようとするだけでも、たいへんなことになる。そもそも、目次という概念に捉われなければならないという不自由がある。雑誌なら、目次ページだけが観音開きになっているなんてことも出来るし、目次の中のそれぞれのタイトルの大きさやデザインを変えて遊ぶことも出来る。そうしたことが電子書籍では難しい。
 しかし、それを不自由と感じている場合なのだろうか、と、そんなことも考える。電子書籍は新聞でも雑誌でも、そもそも書籍でもないのだ。
 活字メディアが中心の世の中が長く続いていたために、最近は舞台芸術さえもが、書籍のような、映画のような型に嵌っている。もちろん、その型を壊そうと必死になっているものもあるにはあるのだが、そうしたものは、どちらかと言えばアウトローだったりする。
 話はまったく関係ないが、最近、プロレスが静かなブームらしい。プロレスはスポーツの型に嵌るのか、舞台となるかで混迷していたように思う。そして、今、プロレスは舞台となったのではないだろうか。リングはもはやそこにあるだけで、舞台には型などない。四角でさえないのだ。試合があって、選手の人間関係があって、パンフにも演出があって、会場にもネタがあって、売店までもが演出の一つに加わっている。
 懐かしいことを言うのは嫌なのだが、小さなテーマパークのような雰囲気なのだ。思えば、日本の古典芸能なども、そうしたものだったのではないだろうか。そこに舞台があり、その周囲には人がいる。見る人もあれば、寝る人もあれば、屋台でものを買って食う人もいる。
 観客は話をすることも、音をたてることも許されないという型がそこにはなかったはずなのだ。
 もしかしたら、自分たちの話に熱中するあまり舞台に向かって「うるさい」と、怒鳴るような人までいたかもしれない。そんな自由さがあったのではないだろうか。娯楽なのだから。
 観せてやる、聴かせてやる、教えてやる、読ませてやる、そんなものは娯楽ではない。そう分かっているのに、筆者はまだ、電子書籍作りでそれに拘ろうとしているのだ。おかしなものだ。一緒に作り、一緒に演出し、一緒に楽しむ、時間や空間を共有するだけで、他のことを求めない、それが娯楽だったはずなのだ。
 お偉い売り手さんたちは、今もなお、読ませてやる、と、そうした態度にいるので、電子書籍も提供しようと考えている。この偉そうな態度は筆者にも浸透しているのだ。困ったものだ。どうして、一緒に遊ぼうよ、と、そうした作り方が出来ないのか。そこが出来ないかぎり、電子書籍には未来などないと筆者は考えているというのに、その筆者が、まだ、提供する側になろうとしているのだ。つまらないものである。遊び方の提案。電子書籍はプロレスのリングに過ぎない。場外乱闘があり、選手の人間関係があり、パンフレットがあり、グッズの販売場までが遊び場でなければダメなのだ。電子書籍は本でもないし、活字メディアの進化したものでもないのだから。
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