椅子が硬いわ。こんな硬い椅子だからトイレが近いんだわ。この前までは座り心地の良い椅子がリビングにあったのに。ああ、きっと、姉さんね。どうせ、この方が掃除が楽だとか、ゆったりしていると私がリビングのテーブルにうつ伏して寝てしまうから、と、そんな理由で買い替えたのね。
どうして姉さんは、何でも機能的で効率的にしてしまうのかしら。食事の後、そのままリビングのテーブルで寝てしまうからこそ心地良いのに。寝るのはベッド、部屋では部屋着、ベッドでは寝間着と、何でもきちんとしようとする。そんな人生が楽しかったのかしら。
だいたい、私たちは老人なんだから、老人はそのあたりは自由でいいのよ。こんな年齢になってまで化粧せずには外に出られないなんて、本当に姉さんは不自由が好きね。
ああ、お尻が痛い。トイレに行きたい。トイレ。あれ、トイレはどこだったかしら。たいへん。私は自分の家のことが分からなくなっている。物忘れが激しいのは子供の頃からだけど、ついに、自分の家のトイレの位置まで忘れるようになったのね。
そういえば、子供の頃は、忘れ物をする度に姉さんのところに借りに行って、それでよく叱られたわ。まったく、私は両親に叱られるより姉さんに叱られたほうが、よほど多いんだから。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
誰かしら。見覚えはあるのよ。当たり前よね。自分の家にいるのだから。きっと、姉さんの元の会社の人ね。まったく、引退して十年をとっくに過ぎたというのに、今も、元の会社の人たちに頼られなければならないなんて、姉さんも因果な人生よね。
「こんにちは」
「あら、こんにちは。今日は暑かったからたいへんだったわね」
「そうですね。まるで真夏のようでしたね。まだ、六月だというのにねえ」
今の人には覚えがあるわ。姉さんの会社を受け継いだ女社長よ。名前なんて覚えてないけど、顔はしっかり覚えているわ。だって、美人なんですもの。
きっと、今日は、姉さんに尋ねなければ分からないような重要なことで来ているのね。ますますトイレに行き難いわ。そんなことなら、私にも一言、教えておいてくれたらよかったのに。姉さんらしいわ。
きっと、それを言うと、また、叱られるから止めましょう。知っているのよ。そんなこと言えばこう言われるんだわ。
「あなたは男を替える度に私に、きちんと報告したのかしら。一度もしなかったわよね。そのくせ、男に騙された後では、いつでも決まって私に泣きついて来たわよね」
その通りだから言い返せないのよ。私は結婚と失敗を繰り返し、姉さんは独身のまま自分の会社を大きくした。そして、男に騙されて無一文の私は姉さんのマンションに居候の老後。
だって、いいじゃない。そんな姉さんがいてくれたからこそ、私は、女を楽しめたんだから。男に騙され続けた惨めな人生って姉さんは言うけど、騙されるのも女の楽しみなのよ。
ああ、トイレに行きたいわ。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
「お婆さん、だいじょうぶですか」
「あなたこそ、だいじょうぶ。遠くからたいへんだったでしょう。御苦労さま」
今のは、顧問弁護士ね。もしかしたら違っていたかもしれないけど、違っていたところで問題はないでしょう。そうしたことは姉さんがやればいいんだから。
なんだか臭うわ。嫌な臭い。きっと排水が詰まっているのね。姉さんは事業には熱心で、掃除や洗濯もマメなんだけど、少し奥の排水の手入れなんかは、本当にダメなのよねえ。排水もたまには薬を入れて詰まりを防いでおかないと暑くなると臭うのよ。
それにしても硬いわあ、この椅子。テレビのリモコンもどこに置いたか忘れてしまったし。そう言えばテレビがないじゃない。テレビまで片づけちゃったのかしら。きっと、私がテレビを見ながら寝てしまうからね。テレビは寝室でしか見られなくしたんだわ。困った姉さんね。食事して、だらだらとテレビを見ながらリビングで寝てしまうのが幸せなのに、そんな幸せを知らずに、最後の最後まで姉さんはきちんと生きるのかしら。きっと、姉さんは子宮にいたときから正座していたんだわ。
それにしても、彼は遅いわね。今日は私の大学の合格祝いにフレンチをご馳走してくれる約束の日だというのに。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
それにしても、何てお客さまの多い日なのかしら。
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