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2015年08月26日23:10

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中年男にとっての源氏物語

「中年となり、心と身体の弾みを失って、初めてわかる本というものがある。
それが源氏であるのは、そう悪くはない年のとりかたではある。
男性であるぼくとしては、すこし淋しいのだけれど。」

円地文子訳『源氏物語(二)』(新潮文庫)所収の
石田衣良による解説「『源氏物語』、ふたつの顔」より

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石田衣良は、作家とのこと。
1960年生まれなので、僕よりも4歳ほど歳上だ。
この文章を書いた平成20年頃は、40歳代の後半だったことになる。

石田は、この解説の冒頭で、あまり源氏物語を読んでいないことを告白している。その部分を読んだときには、
「新潮文庫とあろうものが、どうしてこんな男に解説を書かせたのだろう」
と思った。

しかし、引用した3行の言葉を読んで納得が出来た。
こういう感想は、国文学を専門としてきた人には書けないものかも知れない。
若いときから「研究」の対象として源氏物語に接してきた人は、こういうことを感じないかも知れない。

ひとりの中年男として、中年になってから、円地文子の訳を通じて「源氏」に触れた作家だからこそ、こうした言葉が吐けたのかも知れない。

光る源氏をはじめとした男たち、紫の上をはじめとした女たち。
彼ら彼女らの多くは、この物語の中で悲しみ、そして死んでいく。
そうした彼ら彼女らと、若い少女としてではなく、「中年男」として出逢ってしまうのも、それは一つの「運命」だと思う。
その「運命」によってこそ、はじめて生まれる「感慨」のようなものがある。
石田の言葉は、その「感慨」を巧みにとらえている。

確かに、こうした出逢いを経験することも、「そう悪くはない年のとりかた」である。
そして僕は、石田とは違って、そのことを余り「淋しい」ものだとは感じていない。
(もちろん、恋愛文学としての「源氏物語」を中年男として読むことに、淋しさを感じる気持ちが分からないわけではない。多分、僕は、石田ほどには恋愛というものに興味や未練を持ちあわせていないのだろう。)

石田は、この解説の後半の方では源氏物語の通俗性について語るのだが、その視点も、なかなか面白かった。

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