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2018年10月24日22:49

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事実からの疎外(00)

過去に何度か、新聞の記事となるような「イベント」(出来事)にかかわったことがある。もちろん、そうした記事については特別な関心を持って読むのだが、そのたびに記事の中に「間違い」を見つけてしまう。

「間違い」の原因は、色々とあるだろう。
公的な機関の職員が、新聞記者に間違った情報を伝えたと思われることもあった。
あるいは、「事態」を過小評価させるために、関係者が意図的に事実(を構成する諸要素のうち特に重要と思われるもの)の一部を隠して情報を流したと思われることもあった。

そうしたことを何度か経験して考えたことは、「事実からの疎外」ということだ。

我々の身の回りには、多くの情報が溢れている。耳をふさいでさえ、多くの情報が入ってくる。また、頭に入ってきた情報については、何か「疑わしい点」が無い限りは、まずは疑わない。つまり信じる。

人は、「将来」のことは「分からない」ということを理解している。未来に関する情報には「不確実性」や「不確定性」そして「確率的」な性質があることを理解している。
しかし、情報に関するそうした性質は、なにも未来に限ったことではない。現在や過去に関する情報にも、「不確実性」「不確定性」そして「確率的」な性質がある。

新聞やテレビが伝えることは、膨大な「事実」の中の断片に過ぎない。
とりわけテレビには、視聴者を逃がしたくないためか、「情報」を「分かりやすく」あるいは「興味をそそる」ように加工して伝えようとする傾向が昔からあった。その傾向は、新聞にも伝染しつつあるように感じられる。報道の内容が「事実」から取捨選択されたものであるのは仕方がないとしても、事実が加工され、されら変形されたものとなると、その情報の「価値」や「意味」は何であるのかを問わざるを得なくなる。
そうなると、やがてテレビや新聞が伝えることが、信じがたくなってくる。そして、それらに目を向けることが、苦痛にさえなってくる。実際、テレビというものを遠ざけてから久しくなるし、最近では新聞に目を通すこともまれになった。

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テレビや新聞で報じられたことを妄信し、それに勝手な推論を加えたものを「事実」であるかのように語ること。そのような「事実」を基に一般の個人を非難すること。これらには、ある種の暴力性がある。しかし、言葉の「軽い」人々は、その暴力性を自覚しない。彼らは情報の「確率性」(蓋然性=probability)を理解しないし、認識の「不確実性」「不確定性」からくる痛みにも鈍感だ。

そのような愚鈍な言説は、このmixiの中にも溢れている。

さて、この「日記」は、「亡くなった夫婦に誤解のネット中傷」という新聞記事が発端となって書いたものだ。しかし、僕はその「誤解のネット中傷」というものの現物を見ていない。少しだけ検索してみたが、簡単には検索できないようなところにあるらしい。

私たちは、少なくとも「私」は、事実から疎外されている。

◆亡くなった夫婦に誤解のネット中傷 青森4人死亡事故
https://www.asahi.com/articles/ASLBM354MLBMUBNB003.html
http://news.livedoor.com/article/detail/15479431/
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=5341765&media_id=168

◆青森テレビ、誤報認め謝罪 4人死亡事故の酒気帯び報道
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=5342942&media_id=168

◆酒気帯び報道「なぜあんな情報が…」 誤報に憤る遺族
(朝日新聞デジタル - 10月24日 12:47)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5345350
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