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2018年06月14日17:55

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メスを持つ女、その3

 私は男たちの間を飛び回った。私は曾祖父の手紙にあった花になりたかったのに、結果として私がなったのは蝶々のほうだった。軽いのだ。私も軽いのだ。こんなことなら、飛べないぐらいの脂肪をつけておけばよかった。
「貴男は落ち着いていた。私にはそう見えた。しかし、彼女の手術に右往左往する人々の中で、落ち着いて椅子に座る貴男も、また、揺れていたのだろう。貴男は知っていた。彼女が若かったあの日に愛し合った、あの花であることを。知っていて当然だ。貴男は彼女を忘れたことなどなかったのだから。しかし、貴男はそれと知って、また、彼女が貴男にその命を絶って欲しくて来たことも知って、それでいて、救おうとしていたのだ。貴男は医者だから。しかし、あの日、貴男は、医者と男の間で揺れていたのだ。貴男は麻酔を拒絶した彼女に応じた。それは貴男の覚悟だったのだ。男になる覚悟だったのだ。医者を捨て、男になる覚悟だったのだ」
 そうだと私も思う。でも、曾祖父は女を知らない。女が分かっていない。男は確信すればそれを信じて生きて行けるもの。でも、女は違う。確信は常に不安定で揺れてしまっているのだ。それが女なのだ。彼女は、自分を愛した男が医者として立派に生きていることを喜んでいた。受け入れていたのだ。お互いに別の運命があることを受け入れていたのだ。だから、二人は二度と会うことをしなかったのだ。でも、女はその間、揺れてしまうのだ。彼は自分をすっかり忘れてしまったのに違いない、と。そして、女は不安になってしまうのだ。男が自分を愛したのは若く美しい自分。今の自分は老いて行こうとしている自分。病魔も、また、彼女の美貌を損なわせていたことだろう。だから、彼女は言ったのだ。私のことを知らないだろう、と。知っているのに決まっていた。男が一日たりとも自分のことを忘れた日などないことを彼女は知っていた。何故なら自分がそうだったからだ。それでも、彼女はそう言わなければならなかった。どんなに強い確信があっても不安なのが女なのだ。
 そういえば、私の上を通り過ぎた男の中には、特別に愚かな男もいた。その男は私と一緒に死のうとしたのだ。お断りだった。その男は楽に死ぬための方法ばかりを私に説明していた。お断りだった。一人で死ぬ勇気もない男に殺されるのをどうして許すことが出来ると思うのか。寂しくないから一緒に死ぬ。お断りだった。
「貴男はあの後、親族に、いずれにしても手遅れだった、それを知っての覚悟の自殺だと思います、と、苦しそうに言った。手遅れだったのは、貴男の覚悟だったのではないだろうか」
 と、曾祖父は書いていた。
 違う。
 彼女は最後の最後で医者の愛を確信し、その歓喜の中で自ら一つの結末を選んだのだ。手術の失敗ではなく、自殺という結果を彼に持たせることで、彼に自分はこれで満足だから、貴男は医者として最後までその人生を貫いて欲しいと、そう伝えたのだ。医者は彼女の胸にメスを入れ、そして、その命を絶つ覚悟をしたんだ。だから、彼女はそれを止めたのだ。
 曾祖父の手紙からは分からないことがあった。当たり前だが、二人の性については書かれていないので、そこが分からなかった。でも、私は思う。二人のセックスは、たった一度だけだったのではないだろうか、と。激しく燃え上がり、そして、必死に鎮火させた二人が、最後の最後に、まるで儀式のように冷たいセックスを一度だけしたのだ。快感など少しもないセックス。苦痛しかないセックス。
 それが愛なのだ。どうして、平成の男は、誰も彼も女に快楽を与えようとするのだろうか。痛みなく、優しく、包み込む、それが愛だと思っている男は、その心の根の部分に、女は幼子と同じだという蔑みの気持ちを抱いているのだ。違うのだ。それは、違うのだ。
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