次の企画を考えながら筆者が思うところの雑誌というものについて考えて来たわけだが、この十二の企画だけで雑誌を作るというのも面白そうだ。雑誌なのに、目次というコーナーがあって、目次だけが何冊分も続くのだ。そうなると、本誌の目次には目次というものが二つ並ぶことになる。一つは本誌の目次、もう一つは目次という企画。後記などは、かなり大きな企画になる。
さて、では、どうして、ここで、このように時間をかけて、雑誌の企画を目次や序文から並べたのか、それは、最近、雑誌に思想がなくなったのが寂しいように思えたからなのだ。雑誌だけではない。どちらかと言うと現代日本には、思想というのは格好悪いもの、と、そんな意識があるのではないだろうか。思想など持たずに、ただ、日々に流されて、楽しいままに生きているほうが格好いいと、そんなふうになってしまっているのではないだろうか。
ゆえに、雑誌も、思想がありそうでなかったりする。思想がないとケンカもない。ケンカがないのは素敵なことだ、と、そうした感覚にも支配されてしまっているように思う。本当にそれでいいのだろうか。
サロンがアブノーマルとは何か、官能文学とは何か、と、そうしたことを謳えば、その一方で誰かがそれに反論する。反論があるほうが面白いのだ。そのためには、思想としての雑誌が必要になる。
筆者はアブノーマルを日陰にもどしてあげたいと考えている。日陰でしか生きられないものもいるからなのだ。日向に出してはいけないものもいるのだ。ところが、相変わらず、アブノーマルをパフォーマンスのように考えて明る光の元に出す人たちがいる。
さて、そんな話を書きながら、少し休憩して、次の企画に入ろうかと思う。
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