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2018年06月03日22:02

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読者・研究者・創作者(本論)-劇「夜の寝覚」(4)

昨日の日記では、「読者としての読み方」「研究者としての読み方」「創作者としての読み方」の3つについて考えてみた。
しかし、これは以下のことを書きたいがための長い序論のようなものであった(笑)。

千野裕子の『女房たちの王朝物語論』を読んで、千野の研究者としての読み方に興味を感じた。やはりそこには、僕のような「ただの読者」とは異質なものがあった。彼女は「つぶさに見なければ分からないほどのこと」(同書p.227)にまで目配りをして、そこから得られたものを丹念に練り上げて、ひとつの「論」を創り上げていた。

研究者というのは、本当に大変だと思う。先行研究というものを読みこなさなければならないし、そのうえで自分なりのオリジナリティが発揮できるような研究テーマを選ばなければならない。
たとえば、源氏物語について研究するとする。大きな図書館に行けば、書棚の一段分ではなく、書棚一つ分くらいの源氏物語関連の本がある。しかもそれは開架の分だけであり、閉架を含めれば、その数倍の研究書があるだろう。そのような「研究のための読書」に時間を割くということは、僕にはとても出来ないことだ。僕は、正直な気持ちとして、(そもそも能力に欠けることは別としても)研究者などにはならなくてよかったと思っている。

しかし、だからこそ、さまざまな苦難を乗り越えて書かれたであろう論文などを読むと本心から「すごい」と感嘆することがある。

そうした研究者として着目した千野が、劇の「脚本」を書くと知った。
やはり研究者的な「読み」が反映された舞台化なのだろうかと予想していたのだが、全く違っていた。
ストーリーは、ほぼ原作に忠実なものであった。この点では、手の加えられたところは少なかった。セリフも、原作から(それを現代語に訳して)採られたものも少なくなかったのではないかと思う。
しかし演出は、全く現代的なものであり、そこには原作を読んだだけでは味わえないものが豊富にあった。その意味では、原作のストーリーを変えることなく、表現のレベルで固有の色合いを添えた円地の「源氏」に近いものが、劇「夜の寝覚」にはあった。千野は、研究者としてではなく、全くの創作者として原作「夜の寝覚」を読んでいたのだと感じた。たった2時間の劇でありながら、全集版で1冊の分量がある「原作」から得られるであろうものに匹敵するようなメッセージを与えられたようにも感じた。

奥山景布子の『恋衣』(中公文庫版)への解説の中で、田中貴子が奥山の研究者的な読み方に言及していたと思うが、ある種の才能の中には、「研究者としての読み」と「創作者としての読み」が両立可能なのだろう。

考えてみれば、「研究者」であれ「創作者」であれ、最初は「ただの読者」であったはずだ。そこから、作品の魅力にとり憑かれて、「研究者」なり「創作者」としての読みに立ち入っていくのだろう。それは、ひとつには当人の指向であり、もうひとつには当人の才能のゆえなのだろう。そして、ふたつの読み方を一人の中で両立させることは、更に異なる才能であると思う。

劇「夜の寝覚」を観て、そのようなことを考えた。

「序論」よりも短い「本論」であったことは、ご容赦を(笑)。

◆劇「夜の寝覚」
(1)キシャ×4(2018年05月29日)
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(2)アラビアン天女(2018年05月29日)
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(番外)読者・研究者・創作者(序論)
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◆観劇日記の目次
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