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2018年06月02日11:00

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読者・研究者・創作者(序論)-劇「夜の寝覚」(番外)

人は、どのような態度で「古典」を読むのだろうか。

第一には、「読者としての読み方」というものがある。
読者とは「読む者」のことだから、これは当たり前のことのようだが、ここでいう「読者」とは、読むこと自体が目的であるように古典を読む者のことだ。この読み方においては、基本的には読んで楽しければよい。ストーリーが面白いとか、登場人物が魅力的であるとか、好奇心が刺激されるとか。自分自身の中の何らかの欲求を満たされれば、それで十分だ。ときには、「私は源氏物語を読んだ」と他人に自慢するために、つまり自己顕示欲を満たす目的で読むということもあるかも知れない。その対象が現代の読み物ではなく「古典」であるのは、言ってみれば嗜好(好き嫌い)の問題でしかない。

第二に、「研究者としての読み方」というものがある。
研究者は、古典を読みながら、その中に研究テーマを見出そうとする。あるいは、特定の研究テーマの視点から古典を読む。先行する研究論文の主張が妥当であるかどうかを検証するために読むこともあるだろう。テーマによって要求されれば、好き嫌いに関わらず、特定の古典を読まなければならないこともあるだろう。そして、読んで得たものから「成果」(研究論文の発表など)を出さなければならない。読み方についても、「読者としての読み方」に比べると恣意の許される範囲は狭くなる。場合によっては、「成果」に基づいて他の研究者から批判されることもある。
僕のように研究者ではない者が研究論文などを読むと、「なるほどそういう読み方もあるのか」と感心させられることが多い。これは「単なる読者」と「研究者」との「読み方」(対象に対する態度)の違いに由来することではないかと思っている。

そして第三の読み方として、「創作者としての読み方」がある。
その古典を利用して何かを創作することを意図しているかいないかを問わず、「創作者」としての視点・態度で「古典」に向き合う読み方だ。これには、広く自由な態度が許される。
その結果として、さまざまな創作物が生まれることがある。
後深草二条の『とはずがたり』という古典を元に『新とはずがたり』(杉本苑子)、『中世炎上』(瀬戸内晴美)、『恋衣−とはずがたり』(奥山景布子)などの小説が生まれた。これらの作品には、それぞれの創作者によって、元の古典には無かった「何か目新しいもの」(ノベルティ)が加えられている。

与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴などの多くの創作者が『源氏物語』の現代語訳を行っているが、それらは単なる「訳」というよりも、それぞれの創作でもあると思う。彼、彼女たちは、「創作者」として『源氏物語』を読み、創作物としての「訳」を創り上げた。
その際の姿勢の対照的な例として、円地と谷崎が比較できるのではないか。
円地は瀬戸内に
「わたしは『源氏』をそのまま訳したのではありません。強姦してやりました」
(瀬戸内寂聴「『源氏物語』と円地文子さんと私」・新潮文庫版『源氏物語(一)』所収より)
と語ったのだそうだ。
確かに円地の訳は、訳でありながら全編が円地の色に染め上げられている。訳文の大半には対応する原文がある。しかし、原文に対応をしている訳文においても、円地の色(あるいは艶)が深く染み付いている。そのうえ円地は、原文(原典)には無い多くの表現を(場合によっては数百字の単位で)追加している。これは、創作者に「強姦してやりました」というくらいの意気込みがなければ出来ないことだろう。
また、こういうことは、原作者との間の深い(しかし仮想上の)対話が無ければできないことだろう。いや、それは対話などという生易しいものではなく、創作者の心中に葛藤を呼び起こすような厳しく激しい格闘のようなものであるかも知れない。

これに対して、谷崎の「訳」は禁欲的だ。
谷崎の訳にも、谷崎に独特の色がある。しかし、谷崎には、『源氏物語』に対して「犯すべからざるもの」という謙虚な気持ちがあったのではないか。谷崎は、訳を創るにあたって禁欲的であることによって、自らの「源氏」に対する深い愛情を示したのではないか。
(更に言えば、戦前の谷崎訳では、時節との関係で訳でありながら「削除」せざるを得なかった表現があった。円地は加筆したわけだが、谷崎は削除を強いられたのだ。このことが戦後の谷崎の訳に対する姿勢にも影響を与えたことが考えられるかも知れない。)

このような姿勢の違いから、谷崎と円地の「源氏」訳には、対極的とも言える違いがある。
川端康成は、『源氏物語』のそれぞれの現代語訳について次のように語ったそうだが、これは客観的な評だと思われる。
「与謝野さんのが一番簡潔でいいんじゃないですか。谷崎源氏は訳というより、原文そのままの感じがする。円地さんのは、あれは円地さんの小説源氏だね。」
瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』(日本経済新聞出版社・2008年)p.41より

「強姦」というのは、もはや愛情ではなく、単なる欲情だろう。
しかし、愛情であれ欲情であれ、それらが「訳」という体裁を纏(まと)った「創作」であればこそ、許されることなのだろう。確かに、谷崎の訳と円地の訳には、それぞれに優劣の付け難い魅力がある。

『源氏物語』を始めとした「古典」は、これからも新たな創作者の意欲を刺激し続けることだろうと思う。

◆谷崎訳と円地訳に関する日記
・谷崎源氏(旧訳)における削除と円地文子(2015年09月25日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946397214&owner_id=2312860
・円地文子が描く藤壺の内心(2015年09月19日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946193193&owner_id=2312860
◆源氏物語に関する日記の目次
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=2312860&id=1859548426

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