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2015年06月09日00:24

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パート33 あるいはアデル、ブルーは熱い色

  最近、ニッポンに興味を持ってきていたのだが、興味を抱いてきた時期はたぶん、フランスのあのテロ事件があったとき以後であり、そのころたまたま『アデル、ブルーは熱い色』を観たころであり、『勝手にしやがれ』を観るときはいつも船酔い気分になるにも関わらず、ホントは照明で陰影が決まった構図の作品をやりたいにも関わらず、ノー バジェット映画をつくるにはレフ版もってハンドヘルドカメラにしなければならないと脳をシフトチェンジしてゴダールとパゾリーニを観始めた頃である。その頃いきなり、トリコロールの青あらわす自由とは何なんだろうかと考え始めだしたわけなんだけれど、そのうちに、そんな海外のことを一生懸命考えるよりもまずは、住んでいる今此処であるニッポンを考えなきゃならないと思い始めたわけであり、日の丸の意味はなんなのかとウィキを読むも長文のため読み気が失せ、ミシマとイシハラの短編をたった2冊づつ読むと、飽きている気配である。いやいや、もすこし探求しよう。と思っていたとき、そう言えば、書きかけの『アデル、ブルーは熱い色』が書きかけなんやんけー、といったことを思い出す。その頃のことは思い出せないこともあるから、そのまま出す。ポストヌーヴェルヴァーグが要約されているような感じが一番印象としてのこった作品であるが、いま思い起こせばこのテクスト、ゴダールとパゾリーニに関心を持つきっかけをつくってくれたのでした(註1)。ありがたやと思うと同時に、実像への悟りへと開眼させてくれた。

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数ヶ月前に書いたものです。
  アデルという個を捉えていくキノグラースな感じはアサイヤスもドワイヨンもブノワジャコーも、テシネも表してるって感じで、『アデル、ブルーは熱い色』はとっても典型的にその系譜のなかに在る。本質より先立つ「実存」や必然であり逃れることができない悲劇性ある「ロマンティシズム」はゴダールやパゾリーニからも(註2)、今は悪しき伝統と見做されるオーランジュ=ボストからも、或いはマルセルカルネ(註3)からも表されるものであり、『アデル、ブルーは熱い色』はなにかスペシャルにユニークな作品には感じられず。ガレルと同世代の前述した作家たちが実存を描いているのだとすれば、『アデル、ブルーは熱い色』は実存も台詞のなかで言われているわけだし、そのテーマに沿って個を捉えていってるしで、これからテシネやジャコー、ドワイヨンを観ようとする輩にとっては、分かり易い入り口になるであろう、と、映像=テクスト的にはそうした印象しかもちえなかった。でも、そうした分かり易さがこのテクストの素晴らしさなのかもしれない。デプレシャンのインテリジェンスもカラックスのシネフィルなとこもオゾンのヘンもなく、あるがままに素直であり、前述の一派のややとっつきにくさをもそんな入り込み易いセンスで表し、それもこれもキノグラースが捉えるアデルを肉体化したアデル・エグザルホプロスがいるからこそ顕れたのであろう。クリムトの絵画のように、装飾性がなく活き活きとしていて、人間的に弱くて逞しくもあるのだ。
  むかし、クーネルアソビという言葉が流行ったけれど、このテクストはこのクーネルアソビがインプレッシヴ。アデルという個を表すと同時に、彼女の年頃の普遍的なものをリプリゼントする。食べるシーンが多い。食にはエナジーがいる。その若さが、テクストに表される。牡蠣を食べれないとか、これは生理的欲望に繋がるものにも感じてしまった。寝るシーンも多い。寝るのにもエナジーがいる。寝る子は育つというが、若い子はなんでこんなに寝れるの?と驚くほど長い時間、場所とか時間とか関係なく寝ることできる。寝ることはこの年頃にはとても重要なのである。また、涅槃に寝るようなシーンもあったけれど、瞑想的である。メディテーションな作品がここ最近やたらある感じであるが今の傾向なのだろうか。パーリーで遊ぶシーンも多い。若ければ遊ぶ。しかし、そこにはその年頃らしい心理も表される。パーカッシヴに彩られた陽気に、うっすりと浮かび上がる不安。年頃の様々にあらわされるエモーション、クーネルアソビはカフェのエマの手を舐めるショットに集約される。
  とある本に、思春期の時期とは暗いもの/不安なもの、後になってそれが輝いてみえるもの、と書いてあった。そうなのか?と思ったりもする。高校のときに戻りたいという人もいるではないか。しかし、それも今だから言えるのかもしれない。不安定であるがゆえの輝き、それはその年頃に表されているのだろう。クリムトの絵画のように、装飾性がなく活き活きとしていて、人間的に弱くて逞しくもある、それが「年頃」なのだと感じる。


 ◆ 註1: これだけではなく、友人たちのアートやそれから関心が向いた(ゴチャゴチャしたアートが好きだからかつてはさほど興味がなかったのであるが)ミニマルやコンセプチュアルアートや、アルテポーヴェラやヌーヴォーレアリスムや、まてよ?アルテポーヴェラやヌーヴォーレアリスムはゴダールとパゾリーニに関心が向いた頃からだから並行してかな、どちらにしても、皆に感謝である。受賞を逃した渡辺謙に代わって言います、ありがとう!
 ◆ 註2:デシーカとロッセリーニには前者の人間の実存を見る眼差しはあっても、後者に関してはたとえ悲劇的なラストをむかえても、人間を見る眼差しで捉えるものには“運命”が表されることはない。
 ◆ 註3:マルセルパニョルを受け継ぐルノワールにおいてもアヴァンガルドを受け継ぐルネクレールにおいても、実存を見つめるとか哲学的に小難しいことが表されるのではなくただただヒューマニティーを表されるのであり、運命においても、ギリシャ悲劇や哲学的なものなのではなく、キネマ的な物語性・人間性で捉えられるものである。

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