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2015年06月05日18:07

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パート30



  「お伽噺に興味のない大人のためのお伽噺」の『万事快調』と「語る楽しみのために書かれた物語」の『カンタベリー物語』、ともに1972年のテクスト。
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◆ 『万事快調』(Tout va bien; 1972)
  ほんの四年前には『バーバレラ』でセクシーなスーパーヒロイン闘士だったジェーン、いまや、かつてのヒラリーがかけていたようなダサいメガネを付けた、階級闘争の闘士である。彼女もヨーコとチョメチョメしたことあるのかな。ジェーン、カッコよかった。ゴダールとは意思の齟齬、確執があったようであるが、彼女は彼女自身の意志をちゃんと表す。終盤の、イブモンタンとリヴィングルームで会話するシークエンス、クロースショットの彼女とってもカッコよかった。彼女が肉体化するスーザンの政治的な姿勢がよい、というのではなく、そのショットが絵的にカッコよかったのである。12人のアングリーメンのヘンリーを想起させるとこもあるけど、cool beautyなとこ、対峙する不明瞭な物事に向けて真摯な姿勢をみせるところがよい。内から生まれるエナジーがある。
  アンヌやアンナと同じように、ゴダールは(そしてゴランも)ジェーンに、社会的存在としての彼女自身を意識してもらいたかったにちがいないが、もうすでに出来上がったウーマンであるジェーンは、ロジェバディムによってされた事の二の舞することはなく、彼女自身を表すのである(ゴダールたちはスーザンの自己の芽生えを表したくともそれが出来ずになり、それならしょうがないとばかりに、『ジェーンへの手紙』をその後につくったのかもしれない)。
  思い通りにいかないジェーンを起用しながらも、万事快調に、革命の再検討と意思の確証がこのテクストで成される。タイトルは皮肉を込めたものなのではなく、再検討と確証が成される現在性に万事快調とされるのだ。68年にイメージの世界で女闘士だったジェーンは72年の今此処においても闘士のままであるように、その闘志は今もかわらず。ゴダールも彼女とはパラレルワールドに、68年の意志、変わらずにいる。内と外両方に在る葛藤がその時間に在る。時間に在る意思が写し取られ貼り組まれる。
  意思あらわす身体は階級闘争を再検討し、社会を確証する。工場の一部屋一部屋がレイヤーの如くに表されるショットやスーパーマーケットのワンショット=ワンシークエンスは『ウィークエンド』の初盤のコリンヌとロランのトラック イン ショットやトラフィックの長回しと同様に、その1フレーム1フレームに、生成に宿る意思を写し取る。イヴェントが、我々の日常が如くに表されている。『ウィークエンド』と同じように、最初の一時間は喜劇調で、ラストの30分が女性主人公の社会的存在としての彼女自身を意識するパートとなる(ただし、アンナカリーナやアンヌヴィアゼムスキーが表したうつろいや戸惑いはそこにはなく、スーパーウーマンとしての自律性がジェーンには表される。テレビジャーナリストのスーザンはその後『チャイナシンドローム』へと旅立つだろう)。スーザンはあの工場で起こったことがポゼスすると言う。彼女は脳裏のなかで、それを忘れることできない。記憶として潜在しているのではなく、その時空間には意識が顕れている。スーパーマーケットはとってもコスモポリタン。馴化された消費社会で商品化された「赤い本」は売られる。馴れ合いと混乱は表裏一体に存在するのであり、社会にアンバランスが生きている。ミレーユダルクは外に出向き、ヒッピーに肉喰ったりしてプリミティフしていたにみえたけど、雑食といったことにコスモポリタンであること変わりないこと表されたのであった。このテクストで表されるアンバランスはそれを継続させている。状況のなか意志が求められる。ゴダールの横移動のショットはその不安定な状況を安定した眼差しで写し取る。
  これはシネマだ。虚ではないものを写し取り、想像する。「うわべの安定より社会の変動を」。イメージに求められること、想像に求められること、社会に求められること、劇場の内と外に求められること – 併存、、ネイチャー。表現が併存であるとき、革命はイメージされる。
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◆ 『カンタベリー物語』(I Racconti di Canterbury;1972)
  記憶でもなく夢でもなく、意識である。語るという意識の試みだ。アレゴリーは試みのなかで実現する。集積されるグリッドは詩的に言語する。省み、生を確証するのである。夢の喚起ではなく、意識は生々しく語られる。男色を覗き見するシークエンス、その覗き見されるものは映画の装置性を思い起こさせるものでも、なにかしらへの回帰をうながすものなのでもなく、このテクストに表されるグリッド/ショットと同じものなのである。語られる以前の身体は写し取られ、言語が構成されるようにグリッドが配列される。配列は写し出されたものの意味をまた消し去りながら、身体の生々しさのみを現前させていく。配列は追いつけず消えていく。意味ではなく意思が現前する。『カンタベリー物語』、エロ大魔王ケンラッセルが席巻する当時のイギリスに、パゾリーニはエロスをもって殴り込み!あっちこっちエッチである。
  生をあらわす。語ることはそうした意思を表す。パゾリーニの自虐ネタではじまり、人間の自虐ネタのオンパレード。しかしながら、とても憎めない。ワハハッハと笑うヒューグリフィス、目撃者にして体験者であるこの世界をあらわすチッティ、人生をチャップリンにエモーションするダボリ、そして英国風ブラックユーモアに裸体で弾けるチャップリンの娘、苦界を謳歌する。タペストリーではあるけれど『アラビアンナイト』のような入れ子状なカタチではなく、『デカメロン』と同様にちりばめられたカンカクである。
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  デシーカ主演のドラマなどもそうだし、艶笑コメディはイタリアでは昔からの伝統行事。イタリア映画史の本によれば、『青い体験』や『カリギュラ』なんかもそうなのだろうけれど『デカメロン』のヒット以降に、ヌード満載の艶笑ものが大量生産されたらしい。
     『デカメロン』と『カンタベリー物語』は生の三部作の三作目を飾る『アラビアンナイト』へと集約されているのか? というより、先の2作品がヒットしたから創ることになったように感じる。しかしながら、そうではあっても、『デカメロン』における「夢の方が素晴らしいのになぜか描き続ける絵画」と『カンタベリー物語』の「語る楽しみのために書かれたストーリー」は『アラビアンナイト』にさらなる生の現れとして形を成している。ジュゼッペルゾリーニのカメラアイは先の2作品のDPデリコリのそれよりも荒々しく、剥き出しの生を表しているかのようである。『デカメロン』と『カンタベリー物語』のなかでも瑞々しさを表していたもの、前者におけるリカルッドとカタリーナのエピソードと、後者の盲目になったジャニュアリ候とジョゼフィン・チャップリンが庭園に向かうシークエンスでの裸体の男女二人、それら瑞々しいものをBlow Upしたその中に喜怒哀楽のエピソードをちりばめたテクストが『アラビアンナイト』なのである。そして、『アラビアンナイト』に生/性の瑞々しさが表されるとき、その楽園に対置されるのは『ソドムの市』の人生だ。それは苦界でもなく『カンタベリー物語』の最終盤に出てくる地獄でもない。内と外のネイチャーであり、社会である。楽園ないし人生というものに集約されるカタチで生をチャンチャンと軽やかに終わらせることなく、『ソドムの市』は問題提起をする。提起されたものは内と外、自己と社会において時代時代に省み続けられる。パゾリーニ、生きていたらこの後どのような展開を成していったのか気になるところであるが、幸福にも人生最後の作品を何本も創り続けるゴダールと同じように、彼のスパンとFINEした未完もまた、Fineを表している。人生は未完であり続けるもの、彼の遺言はそこに映し出されている。
  ところで、70年代はやはりセクシュアルなことは革命的ツールであったのだろう。『万事会長』と『カンタベリー物語』、ファレリー兄弟以上に、エッチでありお下品である。『万事快調』、CFの監督であるモンタンは我々に状況を語り聴かせた後アウト オブ フレーム、そこに表される照明の光は“スター”を照らし出し、それに呼応するように、もうひとりのスターであるJFはペニスを掲げる。彼女の顔の前に掲げられる巨大なペニス、革命の闘志として闘士に表される。男女が表されてもゴダール、男性は素っ気なく表すオンナ好き、女性の方に関心あること、今昔男女に『女と男のいる舗道』〜『万事快調』〜『愛の世紀』が表される。彼のパルチザンな闘志を、彼自身は女性に写し出したい。彼は「お前さ、俺にだまってついてこい」というようなこと決して言うことはない。言ったとしても、女性主人公はいつも彼を裏切る。男性主人公は彼女に愛を求める。男女の同一化には、合一もとめる全体化ファシズムと対置される匿名的共同体が語られる。ヒトとヒトが支え合って「人」と書くのではなく、IとIが手を取り合おうとして−が間に入る。Hとなるのだ。『カンタベリー物語』においては『ソドムの市』よりも想像を絶するおゲレツ奇天烈。パゾリーニはいつものように、女性の裸体を素っ気なく表しニョロニョロを関心もって表すが、どちらにしても、あっちこっちエッチである。意思はキノ=アイに生としてあらわされる。チャップリンの娘をはじめ、皆が皆、くんずほぐれつ。体制の社会のなかで、愛の自由を求めている。ラストの地獄での大団円、スカッとスカトロ。体制蔓延るこの世界、マイルドにみえてもメルドであること語らしおん。

       また深く考察る、とめてくれるなおっかさん



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