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2015年06月01日09:36

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パート28


  反米主義であるが、パゾリーニはマルクス=レーニン主義のまま農村に留まらずプリミティフへと回帰し、ゴダールはマオイストとなり都市を自然とみなし漂流、シュールレアリスムとあいなる。のか?


  ブルトンにとってシュルレアリストがイデアリストとマテリアリストを超えたナニかになろうとしたことに比し、ゴダールにとってマオイストがイデアリストとマテリアリストを超えたナニかになろうとした。のか?


  パゾリーニ、天才の視点は普通の人のものとはやっぱり違うなぁ。あまりお目にかかりたくないないながらも毎日見る普遍性を帯びたものがやたらニョロニョロと出てくる。おちんちん、ないしそれが指し示す方向には、バタイユ的な呪われしもの、生の輝きがまざまざとあらわれる。これをプリミティフと言っていいのかどうか分からないけれど、楽園なる生だと言えよう。哀しみも喜びも、いかなる感覚も生に縮約される。
  『デカメロン』、ブニュエルのようである。説話集のような形式も、辛辣ユーモアもまるでブニュエルに思えたのである。しかし、ブニュエルのヒネクレに比し、パゾリーニのはシネマヴェリテに素直な眼差しである。リッカルドとカタリーナのエピソードは瑞々しく清々しい。どのエピソードにおいてもその眼差し、紛らわしいものは混じっていない。おハナシ、アンチンボルドとヒエロニムス・ボスの眼差しとまるで同じような、素直なキノ=アイで写し取られ、それがパゾリーニ表す人生の楽園であり、そこは天国ではなく地上である。今此処はやがてブレッソンのような眼差しで生きることへとアルタポーヴェラに回帰する。久しぶりに観た『デカメロン』、そうした印象をもつ。
  『ウィークエンド』、タチにはじまり、カラフルに工業社会批判的にヌーヴォレアリスム、そしてそれからロメールとリヴェットとの共通する大いなる遺産- 写し取ること、演劇性 etc. -を視て聴きながらも、総体的には結局のところゴダールでござーるのインプレッション。『彼女について私が知っている二、三の事柄』、野生の眼によって存在されうる“現実のなかの現実”を建設作業的にエッセーとして組み立て、『万事快調』は建設そのものコンクリート ポエトリーとなるわけであるが、その隔たった時間の間にある『中国女』において、コスモポリタンが描かれ、『ウィークエンド』においては都市の外へと向かう。フィガロやユマニテに掲載されるようなエッセーの形をやめ、マニエラそのものであろうとする方向へと向かう。

    引き続き、考察る。とめてくれるな、おっかさん。



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