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2008年11月06日23:22

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反戦のアクチュアリティ(サン=テグジュペリの戦争観)

「恐怖の光景ばかり書きつづっても、戦争に反対する理由をみいだすことはできない。といって、生きることのすばらしさと無益な死の悲惨さを夢中になって述べてみたところで、おなじように戦争に反対する理由をみいだすことはできないであろう。すでに数千年の昔から、母親の涙については語りつくされてきた。だがその言葉も、息子が死ぬことを阻止しえなかった事実はこれを認めなければならない。」
「たしかに諸君は、戦争の危険は人間の狂気のうちにあると答えることができる。しかしそう答えることによって、諸君はすすんで自分の理解力を放棄しているのである。」

サン=テグジュペリ「平和か戦争か」(著作集『人生に意味を』所収)より

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「教え子を戦場に送るな」という学校の先生の言葉や「我が子を戦争で失いたくない」という親の心には、誰も反対をすることができないだろう。しかし、「戦争反対」という旗を掲げ、あるいは「戦争反対」と唱えるような「ナイーブな平和主義」は、戦争を止めるために現実的な影響力を持っているだろうか。歴史の中では、戦争を回避しようという融和策が、より悲惨な戦争を招いたと言われたことも、ないわけではない。

では、ナイーブな平和主義に対する「アクチュアルな平和主義」とでも呼ぶべきものがあるだろうか。あるとしたら、それは、どのようなものだろうか。
それは、まず、戦争の真の原因を究明する試みから始まるのではないだろうか。政治と経済と社会について学び、歴史の中で「戦争」というものが不可避のものとして現出するプロセスを見極めようとするのではないだろうか。戦争へと傾斜して行く時間の流れを変えるには、どうしたらよいのか。国家が、国民が、為政者が、その最終的な権力=暴力を発動しようとするのを食い止めるためには、何が必要なのか。
更には、「軍事」というものの本質、兵器や技術の性質といったものに関する知識と洞察といったものも求められるかも知れない。

そうしたことを理念からではなく、現実の政治、本当の歴史、自分の目の前にある事実から考え、そして行動する。そのような思想と行動があり得るとしたならば、そのようなものこそ、「アクチュアルな平和主義」と呼び得るのではないだろうか。

冒頭に引用したサン=テグジュペリの言葉は、「ナイーブな平和主義の無力」を告発し、アクチュアルな平和主義を構築することの必要を説いているように読める。
(もちろん、ここで、戦後民主主義と深く結びついた日本の平和主義についても考えてみるべきなのだろうが、今日のところは棚上げとさせていただきたい。)

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『星の王子さま』を読むと、この物語の作者は、理想主義者であるかあるいは夢想家なのではないかと思ってしまう。
しかし、単なる夢想家に過ぎないようなパイロットなど、この世にはいない。
パイロットに求められるのは、メカニカルなものを理解する能力であり、現実を冷静に分析して判断する能力だ。その中に「夢想」が入り込む余地は少ない。

『夜間飛行』や『戦う操縦士』の中に見られる思索は、リアリズムを基調としているように感じられる。『人間の土地』には、リアリズムだけでは割り切れない何かが感じられる。
そして、『星の王子さま』には、シニカルな現実批判は見られても、リアリズムのようなものは面影すら感じられない。
しかし、それは表面的なことかも知れない。
彼が目指していたものは、その外観にかかわらず、常にリアリズムであったのではないか。
アクチュアリティを目指した行為。それこそがサン=テグジュペリという男の本領ではなかったか。

理想と現実、あるいは理想主義と現実主義とは、お互いに対立しあうとともに、お互いに補い支えあう関係にもある。
サン=テグジュペリの晩年の心境は、間違いなくイデアリズム(理想主義)とリアリズム(現実主義)の相克の中にあったように思われる。彼の最期における行動は、その相克の昇華であったのか。
それとも、矛盾の末の破綻であったのか。
これが、サン=テグジュペリという人物に対して抱く、僕の最大の疑問である。
(それゆえ、今日の日記は答案ではなく、問題点の確認だけを試みるものだ。)

なお、冒頭の引用に続く次のような言葉は、明らかに19世紀的なロマンチシズムの流れをくむものであり、20世紀の戦争においては、最早「懐古的」と言わざるを得ないものではないかとも、僕は感じている。

「同様に、野生の本能、強欲、血の嗜好といったものも、じゅうぶんな鍵とは思えない。それはおそらく本質的なものを見おとすことであろう。戦争の価値をかざる禁欲主義をまったく忘れることであろう。生命の犠牲を、規律を、危険にさいしての友愛を忘れることであろう。要するにそれは、窮乏と死を承諾した、戦っているすべての人たちの間にみられる、われわれの心を打つありとあらゆるものを忘れさせることにほかならない。」

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冒頭の言葉を含むエッセイ「平和か戦争か」は、1938年に書かれたものだ。この中には、スペイン内戦を取材したときの体験を元にした部分もある。彼の死の6年前のことであるから、ここに記された言葉は、彼の晩年の思想とは、やや色合を異にしているかも知れない。特に、この後、彼自身が空軍の将校となり、ドイツによる侵攻の中で部隊の戦友の過半を失う事態を経験したことは、彼の戦争観に、より深い影響を与えたであろうと思われる(『戦う操縦士』)。
しかし、彼の晩年の思索に至る過程にあった「観念」を示したもののひとつとして、このエッセイも注目するに値するものだとも思っている。

この日記は、以下のトピックスの中の議論の中から考え付いたものであるが、およそ半年の間、具体的な言葉とすることが出来なかったものだ。
<ニュースから サンテグジュペリ搭乗機「撃墜」>
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29077584&comm_id=2339


<サンテグジュペリと『星の王子さま』に関する日記>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=233093359&owner_id=2312860
<生と死に関する日記>
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=515589683&owner_id=2312860
<『星の王子さま』トピックス>
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=36499873&comm_id=2339
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