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2008年01月05日00:09

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私家版「石狩観光案内」(4)

この神社は元禄7年(1694年)、松前藩の山下伴右衛門の願いによって立てられました。建てられて目的は、石狩場所の主産物、鮭の大漁と石狩に出入りする船の安全を祈るためです。中心となる神様は弁財天(弁天様)です。弁天社は石狩場所に関係した役人や場所請負人によって信仰され、特に村山家では守り神として大切にしました。主神のほか、稲荷大明神をはじめ多くの神々がまつられていますが、石狩川の主であるチョウザメと亀を神にした「妙亀法鮫大明神」は鮭漁の神としていまも信仰されています。建物の内外には本州から運ばれ奉納された御神燈、絵馬などが残り、蝦夷地第一の生産を誇った石狩場所の繁栄を示しています。

「石狩弁天社」の案内板より

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ここに名前が出て来る「村山家」とは、能登(石川県)の生まれで、阿部屋(あぶや)の屋号で廻船業を営んだ(初代)村山伝兵衛(1682〜1757年)を始祖とする一族のことです。
村山家(阿部屋)の石狩における活動を、石狩市のHPにある年表から拾ってみましょう。

1706(宝永3)年:村山伝兵衛が石狩地方場所を請負う。
1815(文化12)年:石狩13場所は、一括して阿部屋(村山)伝兵衛の請負となる。
1816(文化13)年:村山伝兵衛が石狩弁天社を再興。
1821(文政4)年:幕府、蝦夷地を松前藩に返還。知行制廃止。石狩勤番所設置される。
    この年頃村山家は銭函以東、石狩川に至る間の海浜にホッキ貝を散布移植。
1845(弘化2)年:石狩川洪水。石狩場所請負人村山伝次郎は越後から治水に長じたもの
    19名を雇い、安政4年まで治水工事を行う。(石狩川治水の始まり)
1858(安政5)年:幕府は漁場元小屋を本陣として、漁場改役所を設ける。
     石狩場所村山伝次郎の請負を廃止して、箱根奉行の直捌制とした。

このうち、1706年の請負は、初代の伝兵衛によるもの。
1816年に石狩弁天社を再興したのは、第六代の伝兵衛。
石狩とは直接には関係しませんが、1789年のクナシリ・メナシの戦争の際に暗躍し、小説『蝦夷地別件』に出てくる伝兵衛は、第三代です。

この年表から見て、村山家が150年ほどの期間にわたって、石狩で活躍していたことが分かります。

ちなみに、松浦武四郎が最初に石狩に来たのが、六代目の時代の1845年。武四郎は、以後、安政5年(1858年)までに4回、石狩に来ているようです。

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(2)ご紹介した石狩八幡神社の鳥居は、元々は石狩弁天社のものであり、先日ご紹介した「海上安全」他にも、「富場所」「向秋味」などの文字が刻まれていました。「アキアジ」というのは、鮭(サケ)のことですが、神社の鳥居に魚の名前が記されているというのも、なかなか珍しいと思います。なお、この「アキアジ」ですが、僕はずっと「秋に獲れる美味しい味のサケ」というところから由来するものだと思っていました。しかし、『広辞苑』などでは「アイヌ語アキアチップの転」と説明されています。(若干の疑問あり。)

この神社には、谷文晁の門下生文昌が描いた「関羽正装図」と「加藤清正虎退治図」があり、「歴史的にみても貴重なもの」とされています。実際、これらは見事なものでした。

しかし、今回の僕の旅の目的は、この弁天社における「村山家」の痕跡を探すことでした。
若干の探索の結果、以下の4点がありました。

A.【写真左】「村山もと」の名の入った絵馬
B.【写真中】「村山榮蔵」の名の入った絵馬
C.【写真右】「阿部屋 林太郎」の名の入った「弘化二年」(1845年)奉納の「禮拝器」
D.「村山ソノ」からの献納物(朱塗三方1ヶ、燭台一対)を収めた木箱

Dは「昭和五十年」と記されていましたから、随分と最近のものです。Cは、かなりヒビが入っていましたが、150年以上前のものです。AとBは、写真のとおりユニークなものですが、年代は不明です。

これらが、それを奉納した人にとって、どれだけ貴重なものであったのか。これらを奉納した人の心情は、どのようなものであったのか。そうしたことは、もう確かめる術はありません。ただ、その奉納物を眺めながら、心に想い浮かべてみるだけです。

<石狩市公式年表>
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/profile/PR02554.html
<石狩の歴史>
http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/profile/PR02553.html
<石狩弁天社>
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/sub6.htm
<一般的な石狩市観光案内>
http://www.kouiki.chuo.sapporo.jp/purimail/old/no.8/8-sightseeing/8-sightseeing.htm
http://www.kouiki.chuo.sapporo.jp/purimail/old/no.1/1-nature/1-nature.html
http://www.bfh.jp/area/city/58/

<アキアジ>
http://www.uokuni.co.jp/koho/kiharasi/kiha_doc/190_191.html

<六代目伝兵衛の頃の石狩と松浦武四郎>
http://homepage3.nifty.com/iwata/s3017.htm

『スーパーニッポニカ』(小学館)所収の山崎節子氏による「村山伝兵衛」の解説(一部改変)
■村山伝兵衛(むらやまでんべえ)
蝦夷地の場所請負人(ばしょうけおいにん)。初代伝兵衛(1682―1757)は能登(石川県)の生まれ。松前(現:北海道松前町)に渡り、阿部(あぶ)屋を号し廻船業を営む。その後、宗谷(そうや)・留萌(るもい)の二場所を請け負う。三代伝兵衛(1738―1813)は商才にたけ着々と事業を拡張、寛政(かんせい)のアイヌ蜂起(ほうき)(国後(くなしり)・目梨(めなし)の戦い)を機に飛騨(ひだ)屋の請負場所が松前藩直領となりその差配人となるなど、盛時には請負場所、差配場所あわせて数十か所に上った。1796年(寛政8)、藩庫収入の増加という目先の利益にとらわれた藩政の犠牲となり、居所払い、建物・土地などの没収を命ぜられ没落した。しかし98年幕府の蝦夷地御用掛設置に際し官用取扱いを命ぜられ、また松前藩からも居所払いを免ぜられ一代侍大広間格として採用された。四代以降幕末まで続くが、往時にまで再興することはなかった。
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