等身大の主役。
仲野太賀が大河で演っていること。
「向こうは大河の主役ですから、こっちから教えることなんてないですよ」
「あー、そうなの」
「元はですねぇ、大河ドラマに出られるようにと思ったんです。ちょっと(大河の)字を変えてね。僕は無理なんで、子供にはいつか大河の主役になってもらおうと、名前にしたんですね」
「そうなの、叶ったのね」
「徹子の部屋」で、黒柳徹子さんと仲野太賀の父、中野英雄が言葉を交わしている。仲野太賀の太賀という名前の由来は大河ドラマだったという。
アウトレイジ役者として際立つ中野英雄だが、あの武闘派の木村役とは似ても似つかぬ神妙な態度で話している。
○
大河ドラマの歴史は、大時代ドラマから等身大ドラマへの変換の歴史だったのではないだろうか。もちろん凸凹あって、一直線にそうなったわけではなく、長い時間の中でのゆったりとした変化だと思う。
それをはっきりわからせてくれたのは「龍馬伝」だったのではないか。さほどの英雄でもなく、さほどのヒーローでもない男が等身大で時代に立ち向かっている。そうゆうドラマになっていた。
○
「豊臣兄弟」は、ごく普通の兄弟ドラマだ。そこらの横丁から現れて、あれよあれよという間に時代の表舞台に立ってゆく二人。
兄の秀吉、池松壮亮には幾分かの狂気が秘められているが、弟・秀長の目には日常しか映っていない。等身大の風景。
「鎌倉殿の12人」と比べると違いは少しはっきりするだろう。頼朝と九郎判官、曾我の五郎十郎、欲望が加速するために設えられた兄弟。二つの電子、二つの加速。やがては壊れかけのまま離れてゆく兄弟の電子。
目の前の兄の悩みをなんとかしたい、苦しみを吸い取りたいと思う等身大の弟。仲野太賀は見事にこの役の設定にハマリきっている。
とぼとぼと兄の後ついて侍になり、目の前で秀吉が鬼のように形相で人を斬れば、震え上がり、
「侍なんてイヤだ」
と腰にしがみつき、
「兄者、これを食わんと」
とウツの兄を覚醒させようと、饅頭を腹一杯頬張る秀長。すべてが等身大に見えてくる。歴史が等身大になってくる。(ということをやりたかったのだろう)
○
目の前の凡庸な男、豊臣秀長の風景、これっぱかりのドラマツルギィで大河を動かせるだろうか。ところが「兄弟を殺した男」信長の虚無がいつも秀長を見つめている。
「お前は、いいなあ」
ほとんど口に出しそうになるが止まっている。
ヒロイズムはその度に立ち止まり、反芻させられる。
「お前らを見るとな…俺は、間違っていたような気がするよ」
小栗旬・信長は、表情だけでそれを語りかける役目になっている。
信長は死んだ。さあ、次のドラマツルギィのアンプ(増幅器)はどこからくるだろう。
小一郎は死に、信長の虚無は少しづつ秀長の肩に乗り移っている、ような気がする。関白・秀次の処刑までその虚無は拡大していくような気がする。
○
等身大が虚無を抱えると、いままでにない人物が出来上がる。
突然話しは変わるが、黒沢の「生きる」で志村喬が演じた公園課長のように、ブランコに乗り夜を過ごす日がやってくる。
最終回、どんなブランコに乗っているか、楽しみで仕方ない。(勝手な思い込みですがね)
等身大で演じたはじめての大河の主役、仲野太賀。それが新しいことは間違いなくて、ここだけは父親、中野英雄に必ず伝えたいところです。
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