大滝詠一マニアになろうか��
青い夜風もふりかえる。
ズン、ズン、ズンドコ
街のみんなもふりかえる
青い夜風もふりかえる
小学生のぼくは、この「青い夜風もふりかえる」のフレーズを神のように尊敬していました。はじめて真っ暗な映画館で聴いた時、ブルブルブルとシビレるのを感じたからです。
映画の帰り道、「夜風は青いのか、そーかー」。その夜風が、ぼくを追い越して、
「ぼうず、こんな夜にどこへ行くんだい」
不意にふりかえりぼくに声をかけたりするのか。そう考えるとたまらずウシロを見て、ぼくを追い越しそうな夜風を見つけようとしたりした。でも、誰もいなかった。
大滝詠一は小林旭の大フアン(というより)、人生の一部になっている人と言って良いのだと思う。
つまり、そのー、大滝詠一は、小林詠一であったり、大滝旭だったり、もはや渾然一体となった人格を形成していている人なのです。
小林旭が曲の中で
「ズン、ズン、ズンドコ」
に強弱をつけると、
「それはねぇ、こういう意味になっているんですよ」
などとあっさり答えを教えてくれる。なにしろ、ほとんど自分のことを話しているのだから話しが早い。
かくゆうぼくも、小林旭の大フアンだった。どのくらいかを(自分で)説明するのは難しいが、ぼくは『二連銃の鉄』という映画を映画館で見ています。現存する日本人にもう何人もいない、少数民族の一人です。
あの奇想天外の名曲「ダイナマイトが百五十屯」がヒットしてできた映画がなのだが、ぼくは封切り前にはもうこの曲に惚れ込んでいて、いまかいまかと待ち構えて見に行ったのです。小林旭がはじめてひとり主役をとった映画で、つまり旭マニアの原点に当たる映画でした。
競争する気じゃないですよ。大滝旭はずっと上。いろいろ話しがわかると言っているだけです。
○
頭の曲は、「アキラのズンドコ節」。
渡り鳥シリーズと並列の流れ者シリーズの第2弾『海を渡る波止場の風』の挿入歌です。作詞は、西澤爽。
街のみんなもふりかえる
青い夜風もふりかえる
奇跡としか言いようがない素晴らしいフレーズです。西澤爽、すごい。ぼくは、もうまいっていた。この頭二行で作り出す世界には、おじさんもおばさんもいない、よーくわからない未知の世界がパックリと口を開け、小学5年生のぼくの前に広がっていたのです。
西部劇で荒野に立つガンマンのような気持ちにさせられた、というのが近いでしょう。
歌謡曲には名作フレーズが山のようにある。けれど、どれが最高かなんて決めようがない。ないよなあ。キリがないもの。
西澤爽は、この時すでに大先生なのだけどそれにしてもこの1〜2年は特に神がかっていた、と言って良いのだと思う。
夜がまた来る 思い出連れて
俺を泣かせに 足音もなく
なにをいまさら つらくはないが
旅の明かりが 遠く遠く潤むよ
同じ年(1960)の3ヵ月後にリリースされた「さすらい」にも、「青い夜風」に近い世界は再現されているのだけれど、ぼくには「ズンドコ」のフレーズの王座は揺るがなかった。
大滝旭大先生も、モーレツに西澤爽を褒めます。それは、この詩の完璧性です。揺るぎない世界が生まれていて、非の打ちどころがないのです。説明が不要なのです。
説明をすると、今風に言えば「ダサくなってしまう」だけ。
青い夜風の前に立っている自分がいれば良いので、それ以外はなにもいらない。そこにすべてを振っ切るようなアキラの声が響くのです。そーすると
「なにを〜いまさら〜」
という声が後押しをするように、人生を迷う人間の尻を一押しするのです。
○
あの時代、歌謡曲がどれだけ吸収力があったか。ブラックホールのようにすさまじい勢いであらゆるものを吸収し、歌謡曲に取り込んでいきます。その一例。
フランスで18歳の少女がベストセラーを生み出します。フランソワーズ・サガン「悲しみよこんにちは」です。ジーン・セバーグという女優が主演し、映画になりこれもヒットします。セシル・カットは、この映画のから生まれました。
この「悲しみよこんにちは」が島倉千代子の「思い出さん、こんにちは」になり、もうひとつ転んで浜口庫之助の「涙くん、さよなら」までになっていく。これでさえ、あっという間の出来事だった。
斎藤由紀の「悲しみよこんにちは」、永井龍雲の「悲しみは雪のように」にまで飛び火していくのは、さらに10数年後のことです。
○
上は(日本からは遠い)世界を取り込む作業ですが、渡り鳥シリーズ・流れ者シリーズというロケシリーズを抱えた小林旭は地方を次々に取り込んでいきます。それが民謡シリーズです。「なんとか節」の連発です。
その頃、ぼくは民謡なんぞにゃ、まるで興味はなかった。だからはじめの「ズンドコ節」なんてタイトルはどうでもいいわけで、「青い夜風もふりかえる」の一行に惚れ込んでいるんです。
少し話しは、前後します。
映画『二連銃の鉄』を見たばくは、いよいよ渡り鳥シリーズの原点『南国土佐を後にして』を見ることになる。
これが、偶然だった。日活と大映が併映の封切館で、カラカラカラ、ブーン、モーレツなクーラーの中で見ていた。
『二連銃の鉄』と比べると、事前の話題性もなく併映版としてかかっていたんですね。
「あー、小林旭の映画か」
と思ったくらいで見ていたのだが、フランス映画のようなタッチにじわじわ引き寄せられてしまった。
ソフト帽をかぶった二本柳寛を斜めに切るアップ、西村晃の怪しい顔が片ライトに浮かび出す。
なぜか振り返りでカメラは止まる、カシャ、あッ、ルリちゃんだ。
というようなことで、フイルム・ノワールを思わせるこの映画を見終わると、
「あー、そろそろ小林旭の時代が来るのかなあ」
などと思ったわけです。映画館の通路には、石原裕次郎の顔写真が(メインで)かかっているのですが、芦川いずみを挟んで旭の写真がかかっていた(気がします)。
○
どうして人は歌うのだろうか。この根源的なテーマを小林旭の歌は、教えてくれている気がする。
つまり、人はからだ中のウサを晴らすように歌う。歌い終わると、人はいくらか体重が軽くなっている。ウサというのは肉体の一部であったことをわからせてくれる。
ふりかえると、道々には累々とウサの球が転がっている。だから、
街のみんなもふりかえる
青い夜風もふりかえる
のだと思う。
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