江戸の風ってのは、
たとえば、こうだ。
「生きてるうちは
会わねえねぇぜぇ」
雪の中を素足で尻っ端折り、うわー、シビレる、タマラねぇ。
(歌舞伎特有の姿で足を白く塗っています)
花道で見返して、さあ、この世で一番大事な三千歳にこのセリフ。大事な何かをあきらめた、その仕草、セリフが、教えておくよー。秘伝だよー。つまりそれが「粋」なんだ。あーあ、気が遠くなる。
江戸の風ってのを教えるなら、頭の一行ちょいで十分です。
談志のとこで「小猿七之助」を演りました。
言ってみりゃあ、なんて事のない男と女の話し。
江戸前の話しは、太閤様も権現様も出てこねぇ、町方の話してぇのが相場で、小さな話し。どうしてかと言えば、根が反権力なのさ。
せいぜい言えば小悪党の出番。小悪党で終わる人間の面白さが、ほんとらしさを作っている。
だからね、大河ドラマと江戸の風ってのは、おおよそ相性が悪い。それがねぇ、権力大好きNHKがよくぞ「べらぼう」をやったもんだ。
○
もう一度、芝居の解説からはじめます。
この芝居は「天衣粉上野初花」(くもにまごふ うえののはつはな)という外題で明治期の作品、通称「天保六歌仙」ともいう。作者は河竹黙阿弥。
その中で「雪夕夜 入谷畦道」という芝居、これがなんともよくて通称「入谷御寮」とも呼ばれ、一幕二場で舞台にかけられます。というより歌舞伎通への一種、約束事のような見事な演し物です。
ぼくは、落語の話で「江戸の風」という言葉を何度も使っています。
もし「江戸の風」を知りたいのなら、すべての芝居を見ることはなくて、この一幕二場を見るだけで十分です。というのがぼくの意見。
ただただ一対一で生きている人の情。男と男、男と女、女と女。飾りのない人生がもう一つの飾りのない人生と行き当たり、行き止まり。終焉に近づいていく。
言い換えりゃあ、「紋付なんかじゃない、着流しで生きている」人間の生から死。雪に消える人生の芝居。
大名を騙そうとした企みが露見、いまや江戸を追われる身になった直次郎。最後の別れに、入谷にやって来た。そこには、吉原・大口屋の花魁、三千歳が養生している。
鬼子母神前の蕎麦やで、偶然、出会った按摩の丈賀に三千歳への手紙を託す。
「さあ、とどいていりゃあ、行き着くころには門のシマリは開いてるはず」
表に出ると謎解きのように、今度は追われる仲間の暗闇の丑松に出会う。お前とも、もう会えねぇかもしれないな、とはじまる二人の割りゼリフ。
「筑波おろしに行く先の」
「見えぬ吹雪が天の助け」
「そんなら兄貴」
「丑や、達者でいろよ。」
ここで別れた丑松だが行きかけて、ピタッと足が止まる。
(さあ、考えもんだ)ここで追い逸れながらと訴えでりゃあ、
(兄貴、すまねぇ。)オイラの助かる道が生まれる。
踵をかえし、丑松は番所に走って行く。
ここまでは男と男の話し。ここから、男と女の情が見せ場になる。
ところが、裏切りだ。三千歳と会った直次郎だが、さほど時を過ごす間も無く、追手が迫る。
直次郎は三千歳に頼み込むように、声をかける。
「いまさら言っても返らねぇが、悪事をなしてお仕置を受けりゃ
先祖代々の、墓へ入れなくなったこの身の上だ。
回向院の下屋敷へ、俺の墓を建ってくれ。コレがお主への最後の頼みだぜ」
(追い立てるように)ド、ドーンと太鼓。雪が落ちる。
追っ手がせまる直侍に
「わたしを殺してから逃げてくれ」
と頼む三千歳(みちとせ)。それを吹っ切るよう駆け出す直侍。花道の七三で、半身になって、
「生きてるうちは、会わねぇぜぇ」
という名セリフが飛び出します。
(三千歳、これまでだ)と心中で印を切る、前を向く。
柝が鳴って、花道を駆け抜ける直次郎。
この一連の話しは実話で、小塚原で処刑された片岡直次郎を、後年、三千歳が回向院に墓を建て、いまも「二人の墓」として祀られています。
○
さーて、さらに説明だ、長いね、どうも粋じゃねぇなあ。
望むものに近づく緊張感、それをあきらめた瞬間に訪れる解放感。パチパチ、パチ。希望が、火花のように揺れて落ちていく。
夢や希望がたやすく叶ったら、ゲスなことにしかならないよ。ほとんどの夢は、叶わないから夢なんだ。
「生きてるうちは、会わねぇぜぇ」
粋というのは崩壊する夢の軌跡の中にある。キリリとあきらめる、その瞬間にこころの中に飛び散って
「線香花火の火玉のように落ちてゆく」
そのカタタルシスの中にある、というのが粋の根元的説明です。
で、ね、ここで大事なのは
「誰もが達成できる行き様(よう)だってこと」。
殿様だったり、侍だったり、そおゆう言わば人間らしい「生き方」の独占から、
「オイラたちには、オイラたちの生き方がある」
と市井の者どもがようやく作り出した「生き方」。それが粋なんだとぼくは思う。どうだろう、わかってもらえるかなあ。
言い方を変えると、権力は、町場の人間に「生き方」なんてないだろうと横着にしか思っていなかったんだ。それこそ人間扱いしていなかった。
そこでだ、江戸の風ってのは、町に生まれた者の生きるプライドで、
「どっこいオイラは生きていて」
それが純化されたものが「粋」。というのがぼくの整理になる。
言わば小悪党に過ぎない片岡直次郎が、「江戸の花」になる理由はそこにある。
誰が田舎者の成り上がりをホメなきゃなんねぇの。言いづらいけど、太閤様や権現様のことですよ。
そんなものより、直侍の方がずっといいやねぇ。というのが江戸の風です。
えー、ねぇ、他所(よそ)にはない、美風でさあ。
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