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2025年12月24日09:35

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なかにし礼、ディジャビェの言葉。

 ぼくは、えんえんとあることについて話をしていた。自分とね。
「天才というか閃きというものは、日常的経験の上に経験層のように乗るものではなくて。降りてくる。つまり1フエーズ、2フエーズ上のものが弁証法を下降するように降りて来る」
 というようなことを、ぼくは言いたいのですね。

 と言ったところでたいした難しい話ではない。ちっぽけな流行(はやり)歌の話。

 追いかけーて(ドンドン)
 追いかけーて(ドンドン)
 縋り付きたーいの

 あの人が 消えてゆーく
 恋の曲がり角
 
「追いかけーて」というフレーズが、さあ、どこから出てくるのだろうか。体験なのだろうか、憧れなのだろうか。けれど一度このフレーズを「聴いてしまった」人間は
「そりゃあ、このフレーズだ」
と予期されていたものとして扱うだろう。
「前から決まっていたのさ」
と、まで思考は勝手に発展しているのかもしれない。

 その答えは、人は「天才というか閃き」の存在をかたくなに認めたくない、という癖を持っているということなのだろう(と思う)。ほんの少し時計を逆戻りさせて、なんとか日常の中にはめ込む作業を、人は手早くしてしまう。
 少し言い方を変えるとそれを「私有」することで、認識という過去の自分の一部にしてしまう。

 それが、人が持つ独特なコミュニケーション技術だ。

 あなたの……など知りたくないの。
 この話の方がもっとリアルでいいのかもしれない。

 作詞家、なかにし礼はのたうち回って……に当たる部分に一語を捻り出した。そうして次々と歌本を繰ってみた。その一語は、歌本の中に一回も登場していなかった。その瞬間、
「勝った」
と、なかにし礼は思ったそうだ。だが、スタッフは全員反対した。
「いままでに聴いたことがない」
というものだった。
 なかにし礼は、全員の声を無視して収録した。

 余談だが、音大生だった菅原洋一は
「この曲がダメだったら、地方の高校教師にでもなるか」
半ばガッカリしながらスタジオに入っていった。
(この曲、別に有名な曲でもないし、それも仕方ないか)
とほぼ諦めの世界だった。

 この曲が発売されると、どこのホールもこのあまり有名でない曲をラストソングに使いはじめた。
 なかにし礼は、高輪のホテルでその光景に出っくわし、茫然とした。

 あなたの過去など 知りたくないの
 すんでしまったことは 仕方ないじゃないの 

 ホールで踊るすべての人は、
「同じ過去を抱えた人のように」
 踊り、陶然とし、見つめ合っていた。

 溶けた時のシズクを流すように、ミラーボールは回っていた。

 さあ、ここでなにを言いたいかと言えば、ホールで踊るすべての人は、不思議なことに歌われる「過去」を経験してしまっている、ということだ。歌本の中に一回として登場したこのない「過去」は、あっという間に共有された「過去」になっている。

 言葉が、既視感を連れてきていた。

「過去」という言葉が流れた瞬間、その風景は過去のものとして存在し、人物はその過去の空間にくりぬかれた人形(ひとがた)の穴にすっぽりと身を埋めることで、既視の情景は成立する。

 時間は、弁証法を下降するように1フエーズ、2フエーズ上のものが降りてくる(気がする)。既視とは、このように弁証法の中で時間を逆流させた行為と、ぼくは感じた。
「天才というか閃き」は、こうして言葉が風景を既視させる。
「去年マリエンバードで」という映画が既視、ディジャビェをテーマにしたものだったのだが、言葉が風景を既視させることを言い出す人はいなかった。

 あ、ごめん、ただ一人いたのだが、誰も気づかなかった。
 詩人アルチュール・ランボーだけがただ一人、言葉の先見性を主張していた。そいつはいかにも世俗な一言の言葉で語られていた。「千里眼」という言葉だった。

 着古したシャツを着るように、「千里眼」は街に飛び出して行った。
 アルチュール・ランボーを目指す人たちは、必死に「千里眼」を使って未来を話すのだけどあまり信じてもらえなかった。代わりに、何人かの作詞家が栄光をもらった。そんな時代だった。
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