宴会をやるのに組織を使うなよ。
タレントだろうと、ヘチマだろうと、みんなひとりでフラッと生きていくんだ。それがいいんだぜぃ。
駕篭に乗せられて、御簾に乗せられて、お調子にのりのり生きていく、そんな道中姿を見るのも気持ち悪いやね。
死んだ成田三樹夫が白塗りの麿(烏丸少将文麿)の役をやった時
「ほー、こりゃあ、笑えるわ」
とみんな驚いた。本人さえ、自分で自分を道化するようだと喜んでいた。ところがねぇ、よほど頭が良くないと、(たかがタレントでも)成り上がると人が変わる。「こりゃあ、笑えるわ」という自由な見方は金輪際できなくなる。もしかすると「俺は、別格なんだぜぇ」と勘違いを望むようになる。
そうすると、もう人間は半分おしまいさ。
別格を演じて生きていくようになる。大物芸人とか言われる人たちは、その演技に疲れ死んでいく。全部とは言わないが、よくあることなんだ。
えーと、福山ねぇ、長崎から出てきて売れなくて金もない毎日、代官山の事務所にやって来ちゃあ、女性マネージャーから
「ちょーだい」
と千円貸してもらっては生きていた。と「魂ラジ」で言っていた。それがなあに
「そろそろ女子アナの顔を見たいですねー」だ。
ヤダねぇ、成り上がったようで。人間が成り下がっている。
「下の毛の手入れをしていますか」だと。
いいかい、今度の下ネタがいけないのは、組織を使っているからさ。組織が「集合」をかけて、(芸能界の)上級生が下級生をなぶる構造になっている。(程度はわからないが)そういう行為だから、いけないのさ。
「龍馬伝」でなにを学んだのか。
あのドラマの主題は差別と自由だと思う。郷士に生まれた龍馬が上士との行き違い、道端に泥だらけになってひざまづく。福山龍馬が本気なって怒っていた、だからあの様子がドラマでは人の心をうったのだ。
人間は楽な方がいい。楽をしたい時に、持ち出すのは「自分は別格」だ、という好都合な言葉だ。
これは、私感だが「龍馬伝」の中でも「自分は別格」と言い出したものは、やがていなくなっていた。
うまいものを食べる、きれいなものを着る、高い自動車に乗る。
なんでもいいさ、好きなようにしな。でもね、昔の親なら必ず言うよ
「皆さんに感謝しなさい」って。
親はねぇ、自分の子が別格ではないことをよーく知っているのさ。おむつが取れなかったり、鼻水を垂らしたり、ごくごく当たり前の子供が運よくこうなったとすっかり分かっているのさ。
「さあ、どこが違うか言ってみな。お前は、ただのうちの子だよ」とすぐに言葉になる。
だから「感謝しなさい」と心配のあまり言うのだろうね。
取り巻きは、そんなことは少しも知りゃあしない。当人を持ち上げれば自分を持ち上げることになる。だからヨイショ、ヨイショと担ぐのさ。
モットー高く、モットー高く。声かけあって。
これが、芸能界の仕組みかもしれない。
「高倉ですが、予定を教えてください」
某代理店に、高倉健が自分で電話をしてきた。電話を取ったのが若いAD(デザイナー)だった。
「え、え、…」
「自分、高倉で間違いないですから」
青山の紀伊國屋の裏に個人事務所を開いていた時は、全部、自分で処理をしていた。そして、一切、余分な注文をしなかった。特に女性関係の注文なんてあり得なかった。
「家族になろうよ」という幻影を信じ込むのもバカげているかもしれないが、いささかは思い出してほしい。
というのは、思い出すそれこそが感謝というものだからだよ。わかるかなあ。わずかでも責任を持つということさ。
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