「疑うのなら、どうぞわっちを殺しゃんせ、…これがわっちの意地でござんす」
「べらぼう」13話で、小柴風花の口元からこのセリフ飛び出した。
「シビレるねぇ」。
つまり、これが「いき」というものなんですよ。ここに意地という言葉を持ってくるセンス、さすが「いき」を知っているなあと思うのです。勉強というか、時代考証というか、ま、両方だね。
「どうしてそんなことに」
さういうあなたは「いき」を知らない、と申し上げておこう。申し訳ないが。「意地」という言葉が「いき」の極致で、やせ我慢が作り出す切ない緊張感、それこそが「いき」の持つ美しさなんですよ。
かの九鬼周造「いきの構造」では、「いき」が作り出す世界を見事に分解しているのだけど、その中での極みはここ、やせ我慢の美学なんです。ぼくの解釈でもありますがね。
惚れたものに一体になりたい「色気」、けれどそいつを気取らせない「意気、意地」。(我欲の)無理押しは、しないできない美しい「あきらめ」。
三つ巴の人生美学、それが「いきの構造」です。
瀬川が、「あっしの光は蔦重だが、疑うのなら、どうぞわっちを殺しゃんせ、…これがわっちの意地でござんす」。
と、抑えた声(ここ大事)で鳥山検校に言い放った。そこに「いき」のこころが見えてきます。吉原とはいえ自分の声と言葉を持つ女。
「いき」とは「こころ」と「姿」が一体になってできています。「べらぼう」は、外形的「いき」しか伝えてこなかった映画やテレビに、内形的「いき」を伝えさせようとしているドラマです。
だから、ぼくはこのドラマを楽しみにしています。
「いきな姿」と「心意気」。言葉にすればこのふた通り。姿にばかりにこだわるのはまさしく野暮なのだが、ところが人はみなカタチから入る。それでいいのか。
(「大通」と呼ばれた大尽たちでさえ小馬鹿にされたのは、ほとんどが姿にこだわる野暮だからです)。
「世の中に寝るほど楽はなかりけり、浮世の馬鹿は起きて働く。
さあ、寝ようか、キーちゃん」
ぼくら兄弟の面倒を見ていてくれたお婆ちゃんは、寝る前必ずこの狂歌を一回、言って布団に入ります。
「はあ、そんなものなのかなあ」
と思いつつ、いつの間にか凡庸なぼくは寝込んで朝になる。という毎日でした。
突然、なぜお婆ちゃんの話をするのか。それはねぇ、外形的「いき」は伝えやすいけど、内形的「いき」はなかなか伝わらないという話。
「いき」というのは江戸という自由な都市があって生まれたもの。意気も意地も、持ちようがなかった普通の人々が自由の中にはじめて羽を伸ばした姿。もちろん叶わぬこともあり、その時は「へん、しょうがねぇか」とあきらめる姿を含め「いき」なのです。
朋誠堂喜三二は「いき」に人生を生き切れなかった。
そこに「いき」の文化の境界があります。秋田藩士であった喜三二は、藩の命があれば「いき」の文化から退かなければならなかった。それを固執すれば、山東京伝のように自死するしかないのです。
(江戸を背景にしない)田舎の「いき」は、偽の「いき」。つまり「いき」は江戸でしか育たないものでした。悪いけど、そうなんだ。イデオロギー(政経構造)が、熟していないんだ。自由が育っていない。
えーと、お婆ちゃんね。(うーん、話そうか)元は吉原の大籬(まがき)の女将だったんだ。品のよい声、心地よい間と語り口、それでいて驚くほどの綺麗好き。おゞよそ江戸にしかいないお婆ちゃんだと思う。
さーて、その感触をどうやって学ぶというのだ。そりゃあ、想像ではどうやっても無理だろう。
ぼくには、いまとなっては瀬川の生まれ変わりのように思い出せて。だからね、
「どうぞわっちを殺しゃんせ」
のセリフがとても嘘とは思えない。
この「嘘とは思えない」という内形的「いき」の受け止めをこのドラマが、世の中に何人増やしてくれるだろう。
ぼくは落語を「江戸の風」「自由の風」と定義してきました。何度も書いています。「べらぼう」には、落語のように「自由の風」が吹く文化を再現する力がありそうです。毎回ヒタヒタと吹いてきます。
「疑うのなら、どうぞわっちを殺しゃんせ」
と言ってみようかなあと思えども。よせやい、言うにもほどがあるぜ、と天の声。
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