母親はずいぶん前、20年以上経つかなあ、亡くなりました。その頃の話です。
母親と自分のことを書く、これなかなか気恥ずかしいものですよ。でもね、まわりがもうすっかりみんな歳をとっちゃって、とうに誰もいなくなっちゃった。
もはやぼくが自分で書かなければ誰にも知らずになくなる話、となりまして。嫌だなあ、歳は。など思いながら、かつ恥ずかしながら書いているわけです。
○
「えーと、これは、なんですか」
これから処置をする医師が聴きます。
手術台に横になった母親は、腹まわりの布をヒョイとつまんで先生の質問に答えます。つままれていたのは、真っ白な布状のもの、腹巻です。
「これ、息子が作ってくれたの」
「息子さん、お幾つなのですか」
「かれこれ50ですね、50の息子が縫ってくれたんですよ」
「……男の方ですよね。手縫いですよね」
「先生、笑っちゃいますよね。笑わないでくださいね」
「いえ、いえ、笑うなんて」
ぼくの母親は50歳の時に、胃ガンが発見され手術を受けました。順天堂病院です。噴門部、前から見て裏側に屈曲した部位に出来た「硬ガン」でした。部位が部位だけに、
「よく見つかったなあ」
外科の先生がぼくに声を上げたほどの症例です。その数年後、医科歯科大で通りを良くするための再手術をし、30年ほど元気に過ごしました。
執刀医は、2度とも村上忠重教授という方で、当時、胃ガンの手術では日本一とされる先生、(母親のガンの位置・進行状況などに学問的意欲を強く持たれたのか)
「あー、この患者、ぼくが切るよ」
とわざわざ申告されたそうです。
母親は村上先生の手術歴の中でも、結果として(大いに意味のある)成功例らしく、母親が診察に通院する度ごとに教授と母のまわりに「若い医師が集まって来た」と言っていました。
書きはじめると「書けるところは書いておこう」と思うのか長くなっています。ごめんなさい。
はじめの会話は、その母親が80歳になった時に入院した日医大病院でのことです。検査をすると、胆管がつまっていて、胆汁が流れなくなっている。その通過を改善するための処置が必要になります。その時の会話です。
体側から胆管までカテーテルを差し込み(太い針で刺すのです)、ダイレクトに体外に胆汁を抜き取るバイパスを作ろうという治療です。
「お母さん、あの治療、よく我慢してくれましたね。大変なものです」
痛烈に痛いそうです。担当医の鈴木医師はほとほと関心していました。
身内に胃ガンの手術をされた方がいるとよくわかるのですが、母親のお腹は胃を包んでいる大網を郭清する処置がされています。お腹のクッションにあたるものがきれいさっぱりないスカスカの身の内です。
これがねぇ、文字通り「お腹がスカスカ」状態で、とことん芯から寒いそうです。
そのために腹巻がいつも必要なのですが、病院に売られている腹巻では
「ぎゅっとしてねぇ、キツくて、少し無理があるのよ。跡がついて、痛くなるしね」
と母親は言います。
「わかったよ、わかった」
と、ぼくは即座に答えます。
入院前々日、ぼくは病院の腹巻を手に入れ縦に二つ割りにし、50cmくらいかなタオル切って継ぎ足します。タオル地とメリヤス編みの布地、二本の不器用な縫い目でつながった、真っ白いゆるゆるの腹巻の完成です。
「これで、大丈夫さ」
前夜、遅くなってぼくは届けました。
放射線治療室です。母親が着けたゆるゆるの腹巻の腹巻を見た医師が声をかけます。
(はじめのやり取りの続きです)
「そうですか。このくらいゆるいと着けたまま処置できますね。いいですよねぇ」
「50歳でも、息子さんは息子さんですか。うれしいんでしょ」
医師は、場をなごめるように気楽に声をかけ続けます。
母親は答えます。
「先生、これ、息子が作ってくれた千人針です。だから、私はここで死ぬわけにはいかないんです」
千人針という少し古びた言葉、処置室にいた人たちはそろって大きな声で笑い出したそうです。
(いやもしかすると笑った振りかな、かもしれない)
「大時代なことが起きている」とあきれたのかもしれません。とにもかくにも治療は終わりカテーテルからは胆汁は勢いよく流れ出し、母親は日増しに元気な顔になっていきました。
ぼくは毎日、カテーテルから流れ落ちて袋にたまっていく胆汁を袋ごと手にとって眺めては、
「あー、この色なら正常だ。今度も助かった」
とこころの中で声を出していました。
けれど、ぜんぶはかないませんでした。病院から一度は退院できたのだけど、胆管ガンの転移を止めることはできなく、半年後、亡くなりました。
千人針は、やはり戦時の時のようにあまり効力はなかったようです。
そう言えば、先生は、わざわざぼくの顔を見に病室までやってきました。
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