どうして、何のためにぼくは生きているのか。みんな思う。いちどは思う。
でも、答えは出ないよね。かんたんに答えが出たら、人は人生に飽きてしまうのさ。だからいろんな風に、いろんな意味に取れるように、人生は見え隠れしながら進んでいくんだね。
ひとつ答えを見つけたよ。ある歌の中に書いてあったからさ。いくつもある答えのひとつにはなりそうだ。
歌はこう教えている、人は、人というのは
「誰か ぼくを見つけて くれないかなァ――」
と言いながら生きているっていうのさ。
「そうだねぇ、そうだ。きっとそうだよ」
前に読んだ認識論の本に書いてあった。
自分は自分の中にはなくて、自分というのは他の人の中にあって、それを見ることで自分が作られてくると書いてあった。だとすると、
「誰かがぼくを見つけてくれない」限り自分はいないことになってしまう。
「誰か ぼくを見つけて くれないかなァ――」
というあの歌の声は、生きてることさえ不確かな自分を探す声なんだろうね。ボソボソっと途切れそうな話し方で、不安なんだなあ、手応えがないんだなあ。
誰かが見つけてくれて、
誰かが声をかけてくれて、やっと
「あー、ぼくは生きているんだ」
と胸の奥の方でポトンと音がするんだ。小石が落ちるように。
「やあ、ぼくは生きています。君は元気ですか」
「私は君を知っています。私は元気です」
そうだとすると、さびしいというのは自分を探したいということなのかもしれないね。
ねぇ、森田童子、そうじゃないか。
ボソボソっと途切れそうな話し方とわざわざ書いたのは、その歌を歌っているのが森田童子だったから。
夢さりし後に
何もない ぼくが
ただポケットに 手を入れて立っているョ
誰か ぼくを見つけて くれないかなァ――。
ひとりで埋もれていく このぼくを
見つけたら 声をかけて
くれるかなァ
ポケットには何もない。空っぽさ。お金も、名誉も、夢もなくしちっまった「ぼく」。無名で、無意味な、自分の「揺れ」を見事に詩にしているね。透明な声が素通しの「ぼくの」存在をもっと希薄にして、思わず追うように
「どこにいるんだい」
と声をかけずにはいられない。歌の中の「ぼく」は、もう一人の「ぼく」で、誰でも自分を見殺しになんてできっこないよ。
覚えていますか
今日は 雨が降って
君の好きな あじさいの花きれいです。
誰か ぼくを見つけて くれないかなァ――。
いつも バカな夢を見てるぼくを
雨に濡れてます
ぼくに傘を貸して下さい
傘は雨に濡れた「ぼく」がさすものなのか。そうか、どうやら長い間の(ぼくらの世代が抱えてきた)疑問に答えが出たのかもしれない。
「傘がない」という陽水の投げかけへの、森田童子は答えはこう。傘は、自分探しの旅に出てズブ濡れになった「ぼく」を助けるもの、そうゆう事だったんだ。
70年代以降が透き通るように見えてくるワンフレーズ。時の汚れを手のひらで払い落とし、見返して見る。「ぼく」という言葉が時代の主語になってきた頃だ。
小さな生き方を
少しつづ覚えて
きたような そんな気がしています
誰か ぼくを見つけて くれないかなァ――。
君が ぼくを見つけて くれないかなァ
ぼくを見て
君は 笑ってくれるかしら
そうして、そうして、ラストフレーズは、
「君が ぼくを見つけて くれないかなァ」
というあまりのきれいな人生へのラブソング。
人生は一度でいい、そうたくさんはいらないよ。
「君が ぼくを見つけて くれたなら」
もうそれで十分さ、と教えてくれている。そうかもしれない。
ぼくは、君を見つけただろうか。わからないけど、死ぬまで生きてみる。
ログインしてコメントを確認・投稿する