「オイラあ、でぇ好きだ」
ここんとこだよ、ここ、落語のいいところはここに尽きる。ここでエレキに打たれたように、ビーンと覚醒しないようじゃとても見込みはねぇ。先がないよ、無駄だ。無駄はただより始末が悪い。
「え、え、話がよくわかりません、なんの見込みがないんですか」
ほーら来た、やれ来た、不必要にマジな人。
落語をわが身のことのように聴く人間、(三平じゃないが)いい落語者になれないの。
これね、「紺屋高尾」のヤマ場でのセリフだよ。
「おい久公、お前(めえ)、3年間寝ずに働いて貯めた十八両二分。
惚れた女に会うためにひと晩で使い切っちゃう。えー、ひと晩だよ」
「…親方ーッ、ダメでしょうか…」
「お、オイラあ、そういうの、でぇ好きだ」
3年間寝ずに働いて貯めたお金を惚れた女、三浦屋の高尾太夫に会うためにひと晩で使っちゃおうてぇ話しなんだけど、これが落語の見本。どこがというと、親方の
「オイラあ、でぇ好きだ」
というセリフの出方。迷いがないよ。スッと出るよ。この人間らしさに、ヒューとひと吹き風が吹く。
何にもとらわれない「自由の風」でございます、ってんだ。
「江戸の風」の話をしてきましたよね、この何もないような「江戸の風」ですがね、自由の拵(こしらえ)方でなんとか形になっているわけですね。これが、このやりとりでスパッとわかる。
えれぇもんだねぇ。
でね、続けますよ。
「こういう(夢物語が)落語の世界ですよね。憧れますよね」
兄さん、違うんだあ。悪いけど、違うんだあ。
あのね、東京の者はほんとにこういう人が普通でね、この親方のようにできないと
「どうも情けねぇ、しみたれった人間になっちゃった」
と布団をかぶって寝込んじゃうよ。こういう人がゾロゾロいたんだよ。そんなに遠くない時代だよ。だからね、落語の芯はノンフィクション、だったんだ。
嘘だと思ったら「巷談 本牧亭」を読んでごらん。アレはオリンピック前の様子だからせいぜい半世紀少し前の東京だ。市井の自由人が行き交う街だった。
変わったのはサラリーマンが増えてからだね。オリンピック前から急激に増えた。リーマンの洪水、東京文化はリーマンショックだ。この病(やまい)で跡形もなく消えて行ったね。
とは言え、そいつはイデオロギーの変容だから仕方ないか。
えーと、寄り道でした。「紺屋高尾」というのは、たくさんの噺家がやってきたよ。けれどね、そいつの格は
「オイラあ、でぇ好きだ」
親方の声の出し方で値が決まるね。
いい大人の子どもっぽい声が出りゃあ最高で、女の話から、自由の話に格が上がるんだ。そこんとこわからずに演っている奴は、見込みはねぇ。先がないよ。
「どうないんですか」
三平を思い出しながらもう一度行くか、いい落語者にはなれないねぇ。
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