○2009年1月3日の日記を加筆と答え。
「俺ら、東京の田舎っぺだから」
服部時計店の前で、談志が日本語上手の外人インタビュアー、パッくんに思わずつぶやいた。
あー、はじめてだなあ。よくぞ言った。何年間、何十年間しまっておいたんだろうに。言っちゃった。わかんねぇだろうなあ、けど、オイラには刺さるねぇ。
言うな、言うな、それ以上言うな、こっちまで泣けてくる。
談志よ、お前の70年が俺らの頭の中でグルグルグル空回り、空回りするたび目のウシロをこずかれていけねぇや。
わが戦友と勝手に思い込んでる、立川談志の10時間スペシャルをNHKでやっていた。正月2日の夜中だ。衛星でやったものの再放送らしいけど、ま、見ごたえはあったね。
しかし、まあ「いよいよ談志もいけないね、残しておかないと」とNHK思ったんだろうかね、10時間スペシャルとは。
よせやい、談志がいなくなるんて。
こちとら、中学生の頃から入れ込んで
「こいつが名人になるまで見届けよう」
と40数年なんだ。そうさっさといかれてたまるかい。
戦友だよ、戦友、勝手ながら。
野暮なものには野暮と言い、ヘボなものにはヘボと言い、既成に媚びず生きてきた戦友だよ。
まあ、しょうがねぇやなあ。
行くときは行っちゃうわけだから。
談志のよさってのを少し話しておくか。
談志のよさは、まず才気。これは誰でも言うことだし、すぐ目に付くことだよね。
あとは技かとなるのだが、ちょいと違うね。
談志ほど古い名人上手の調子を残しているやつはいないんだ。
落語だけじゃないよ講談、浪曲、俗曲、もう、やたらめったら諳んじているんだ。これが談志の語りの(端々じゃなくて)ほんの片隅に残っていてね、これがどうにもいい味をつくっているのさ。
ひとつひとつ話したくても、古くて言ってもわからないからなあ。次郎長の伯山とか、新内の富士松とか、「小猿七之助」の名調子とかね。
ややわかりやすいことを拾って言えば、地の話は可楽の渋さ、女は三木助の淡さ、ついでに、バクチの符牒は「隼の七」こと三木助ゆずり。でね、諳んじたってことはそれだけ惚れ込んでいた。
けれどね、のめるほど惚れ込んだその名調子に飲まれることなく、談志の調子を作り上げた、そいつがエライのさ。コピーじゃないよ、本物だよ
「大変だったでしょう、どうしてそこまでがんばれたの」
「お女中、それは、お尋ねか」
そいつは、はじめの5〜6行で書きました。
○
はじめの一行を聞いて
「こりゃ、談志はいけねぇな。ほぼ覚悟をしたね」
はじめの一行はどうにも取り返せない談志の人生の「泣き」なんだ。言わないけどガキの頃から付き合っているオイラには承知、すっかりわかる。
小石川生まれで芸人のことはここで覚えたという、けどどうもよくわからない。やがて蒲田界隈に移って、鵜の木がほとんどなのかなあ。そして東京実業という東急系の高校に入る。
「違うよなあ。東横線の運転手になりたいわけじゃなし」
1年も経たず突然、退学して小さんに弟子入りする。江戸前から離れていく自分の姿に耐えられなかったんだろう。
ある意味、談志は辺境の人だったんだ。つまり新撰組ということさ。文化というのは衰弱してくると、周辺に純化された物が育つ。そうして文化は継続されていく。「辺境の文化」とか「周辺の文化」と言われる文化論だね。
「俺ら、東京の田舎っぺだから」
という言葉が、ほーらリアルになってくるだろう。
新撰組のように形だけを追わず勉強をした。落語の本質論だね。
いっとき談志の切れ味が鋭くなり過ぎて沖田総士のようになってきたし、土方歳三風でもあったかな。ここまで言えば言いたい放題の談志の種がわかるでしょ。でもね、暴れる君の最中でも、落語には謙虚だった。
「俺ら、東京の田舎っぺだから」
というコンプレックスを大事にしていたんだよ。
オイラには承知、すっかりわかる。てぇやんでぇ。
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