「バーンと弾くでしょ、この5弦、開放弦だからねずっと響いててね、いいんだ」
などとエド山口は言う。いいこと言うなあ。
開放された弦の音はよく響くんだ。ボーン。だから開放で生きて行こうよ。そう思うのだけど、なかなかそうはいかないもんだよね。
宇多田ヒカルは、まだまだとても開放弦ではなかった。NHKの「MUSIC SPECIAL」を見た。NHKだからキレイごとで仕方ないのか。間違っても「前川清さんにお会いしたい」とか言うわけないしね。太陽から遠く離れた惑星から届く電波のように、遠い言葉のやりとり。
「ヒカルさんは、時代や性別を歌い込まないのはなぜですか」
「そういうアイデンティティを必要とは思ったことがなかったから」
肉薄しないなあ。
ぼくらの、いやぼくの知りたい藤圭子のことはもはや若い視聴者にはなんの意味もないことなんだろうね。だからと言って、宇多田ヒカルのもの作りにこだわるわけでもない。
「母親に、いちごとかメロンとかスイカという母の好きな果物の名前をつけられそうになったの」
「父が、光がいいよって言ってくれて果物じゃなくなった」
これには少しまいった。生まれてくる子の視力を心配して願うように「光という名前にした」という言葉は伝説になっているのだが、その支えが少しゆるむ。あ、ここから書き直しだ、すぐさま頭をめぐる。
話は進むのだが、有り余る才能を抱え、有り余るマネーを手にしたヒカルを崇(あが)めるようなやりとりが続く。余裕が生まれたのか、ヒカルは反対に輝くような聡明な顔になっている。こだわりなく見さえすれば気がつくはずだ。(このポイントがわかれば、一人前の観察者と言えるのだろうなあ)
透き通るような肌、黒い瞳、やさしい口元。以前とは違う刈り込まれた言葉。
あのタメ口はどうしたんだい。どこに行ったんだい。
きわめて理性的な優等生が目の前にいる。
新曲は、あのモノリスの中に住む住人の生活を目指しているようだった。暗黒のような舞踏。アオイ・ヤマダはソフィストケートとされた麿赤兒となって動いている。過剰な情に出会うのが辛いのだろうか。(なぜかひとつひとつの動きがそう見えてしまう)。詩は現実を遠ざかりすっかり無機的になっている。全体は透明だが、実態は希薄になっている。
取り止めのないこと書いているなあ。実は心配しているんだ。
「母が、父が」という前に、「母ちゃん」が「父ちゃん」が、と言い直すのが大事な時期のような気がする。人はともかく、ぼくはそう思う。自分の土着を求めてよ。
どうしてか。
手応えを取り戻すんだ、さもないとモノリスは出口のないただの箱になる。箱鳴りだけしてメロの聴こえない木箱になってしまう。願わくば、もう少し人生を洗いざらい。
手応えの薄い表現は、(ぼくには)心配が生まれてしまう。つまりね、開放弦になってみるのが一番いいのさ。いつの日か。今すぐさ。
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