○2008年10月05日の日記再掲載
「お嬢、きょうはどうだい」
「錦兄ぃー、あーもう、きょうも来てくれたの。
いいのに、いいのに、あたしのことなんか」
「具合は少しづつ、少しづつ、よくなってる気がするわ」
「そうかい。俺もヒマだから、ちょうどいいのさ」
昼過ぎ、お茶の水、順天堂病院の一室に錦兄ぃは入っていく。ほんの一言ふた言、ベッドの上の女性に声をかけると窓際の椅子に座り、すぐに本を広げ読みはじめる。分厚い眼鏡をかけ、(自分の病気もあり)やっとやっと拾い読みをするように本を読む錦兄ぃの顔に、カーテン越しのやわらかな光がベールのようにかかっている。
この錦兄ぃの分厚い眼鏡をかけた姿を見たヒトはほとんどいないし、いや、見ても気がつかないかもしれない。若いころ見事に二枚目だった錦兄ぃとも、「叩っ切ってやる」の悪を叩っ斬る滅法強い医者姿の錦兄ぃとも似ても似つかないからだ。
なにもなく午後の時間が過ぎ、夕方になると錦兄ぃは本をパタンと綴じる。お嬢が目をさましていれば声をかけ、眠っていれば、静かに居なくなる。それが一日も休まず続いた。
「よし、俺が大将になってやる」
錦兄ぃは相談に来た大部屋役者に一も二もなく返事をした。相談というのは、
「俳優組合をつくりたいんです」
という内容だった。
錦兄ぃはすぐに話しの骨をつかんでいた。
「俺が大将になれば会社も文句は言いずらいだろう。
大部屋の誰が大将になっても、会社は追い出しにかかる」
第二俳優会館の時もそうだった。錦兄ぃは自分には何の得もないのに、大部屋のみんなのために買って出たのだ。
「それはダメ、ダメなんだなあ。なにもね、あなたがそこまでやらなくても…俳優生命を失うことになりますよ」
会社、東映はこんどは、その手に乗らなかった。結局、錦兄ぃは東映をやめることになった。
ここまでで、もうおわかりだろうと思う。
錦兄ぃとは中村錦之介のこと(晩年は萬屋錦之介を名乗っていた)。はじめのお譲とは歌手、美空ひばりだ。そして、俳優組合の話は「蒲田行進曲」の銀ちゃんのモデルにもなった、と言われる頃の話だ。当時、徒弟制度そのままの「映画の世界」にようやく革命が起きそうだと、騒がれたのだが道は開けず中村錦之介は退社することになった。
錦兄ぃこと中村錦之介は男気のかたまりだった。
健さんが言うところの「鶴田先輩」よりそれはずっと上で、男子専科と言われた当時の東映の男らしさの代表は錦兄ぃだった。(実は、健さんの男らしさの規範になっている、とぼくは想像している)
中村錦之介は、歌舞伎の中村時蔵の3男だった。父の中村時蔵は「暫(しばらく)」の一芸で名優とされていたが、門閥の中では周辺のものでしかなく、「暫」以外の時はさほどの役を与えられずにいた。
その「暫」にしても浅草のチンコ歌舞伎で人気を博し、自分のものにしたもので、中村歌右衛門を筆頭にする成駒屋一門の世話になったものではなかった。
錦兄ぃは、その歌舞伎の世界の閉鎖性に半ば嫌気をさして映画の世界に入ったのだが、その時の反骨こそが錦兄ぃの終生の男気をつくっていた。
「役者の力は見物が決めるもの」(落語「中村仲蔵」の中の台詞かな)
錦兄ぃの気持ちはつまりこんなものだったのだろう。そして、それは江戸時代以来の不文律だったはずなのだ。
女形だった歌舞伎の世界に居た頃とは裏腹に、二枚目さえかなぐり捨てるように錦兄ぃは男の世界にした走っていった。多くは娯楽映画で、それこそ記憶にさえ残っていないものが多いのだが、錦兄ぃはそいつをまさしく男らしく「仕事として」演っていった。
そうして、ぼくは、あの石松に出会った。死ぬ間際にかっと目を開ける石松に。
錦兄ぃは、ほとんど音もなく、すーっと舞台から消えるように亡くなった。その時、
「きょうはどう」
と声をかけてくれるヒトはいたのだろうか。
「花と龍」のシーンのように、刺青にそっと手をあててくれるヒト、筋ジストロフィーに痛んだカラダをさすってくれるヒトはいたのだろうか。
本物の男気役者、萬屋錦之介がなくなって10年以上たつ。
風呂上がりのフリチン姿が大好きだったらしいが、その時、錦(キン)はピカピカ輝いていただろうか。
○
注:
�‖萋麈侏ゲ餞曄�主役級が入る第一会館はすでにあり、主に大部屋役者のための第二会館建設をスターである中村錦之介がみんなの大将をかって出て会社に強く要求し、実行させた。
�◆峅屬販供廖�チャンバラから俠客シリーズへ、東映の移行期の代表作となる1作目。主役の玉井金五郎には東映京都のトップ、中村錦之介が当てられた。
�6撻献好肇蹈侫�ー。中村錦之介は晩年近く突如、筋ジストロフィーに罹病した。まぶたが下がり、上がらなくなる状態でとても演技どころではなくなった。寛解に3年以上かかった。
�ぅ侫螢船鷸僉A虻覆涼枯�恵子は「風呂上り、(股間ではなく)ホントの息子と並んでフリチン姿で踊るのが大好きだった」と語っていた。さもありなんと当時、大評判になった。
�ダ�草のチンコ歌舞伎。戦前、門閥ではない若い役者のために、江戸三座発祥の地、浅草で行われた伝説的興業。ここから新しい役者が次々と誕生した。
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