ヒカルの歌を聴いて藤圭子の歌は変わった。どんな思考回路のなかで変わっていったのか。それを、ヒカルに言ったことから逆算すれば
「自分には演歌のナマリがあり、それをとると自分でなくなる」と自覚したことからはじまります。
同時にヒカルには、「小節(こぶし)が反対だから」と演歌を歌うのを禁止した。番外編に書いた通りです。ここが山あり谷ありの藤圭子の人生の中で、何度目かの大きな結節点だったのです。
この瞬間の母娘のことを後から聞けば「どうにも話ができすぎている」と思う人がいるのかもしれない。
「伝説だね。作った話さ」と言う声さえ聞こえそうだ。
嘘に関わる話はこれまでも何度も出ているのだが大事なところなのでもう一度、繰り返します。藤圭子はまったく嘘をつかない、いや嘘をつけない人間なのです。中学校の同級生の言葉を借りれば藤圭子の言葉に「1ミリの嘘もない」のです。この時の藤圭子の決断は、かつての嘘のない「正義の旗を持つ少女」がそのまま「嘘のない母親」に成長したことを教える言葉だったと言えるでしょう。
まだ9歳の宇多田ヒカルがコーラスとして参加した曲は、センチュリーレコードから家族ユニット「U³」としてロック曲を収録したスタジオ・アルバム「STAR」を発売し日本デビューをはたしています。
「STAR」のリリース直前インタビューで、藤圭子は弾むように答えます。
「子供の頃から歌が好きと思ったことは一度もなかった、歌えなくなって、はじめて私は歌が好きだったと気がついたんです」
「新しい藤圭子も少しお聴きください」
藤圭子のリーダーシップが気持ちよく家族全体を支配して、人生の絶頂期だったのかもしれません。
1997年、ヒカルの芸名を「Cubic U」として 「Precious」という“事実上のヒカルのファーストアルバム”を出すが不発のまま終わります。
日本に戻ると、藤圭子はヒカルを自分の人脈のすべてを浚(さら)うように懸命に売り込みをはじめます。その様子を見ると売り込みのために日本に帰ってきたと言って良いのかもしれない。会いたくない(と思われる)石坂まさをに、ヒカルを連れて新宿まで出向き会いに行きデモテープを聞かせる。ところが石坂まさをは、ほとんど関心を示さない。「徹子の部屋」では本番中にラジカセにデモテープをかける。
「あら、上手だわね」
徹子さんの褒め言葉はいただくのだけど、なかなかそれ以上には発展しない。
「ぼくはねぇ、怨み節が好きだから」
平尾昌晃の言葉が真相なのだろう。誰にとっても藤圭子はあまりに大きな存在で、娘がそれ以上のものになるかなどとは想像の埒外だったのでしょう。ヒカルの話は架空の話に過ぎなくて、現実の話とは思えなかったのです。
この時期もうひとつ大事なことは、ヒカルの歌手生活に宇多田照実がさほど乗り気でない様子だったこと。藤圭子の売り込みに「ただ黙ってついて行く」という姿勢だったのです。
「あまり期待していなかった」
「お付き合いをしているだけ」
という様子に見えてしまうし、藤圭子の行先に従っていただけとも思えるのです。
宇多田氏が本当のところ何を意図していたか。家の中のことは外からはわからないし、特に宇多田氏の周到な情報管理がはじまっていた頃のせいもあるのだろうか「わからない」に尽きるのです。
こうした中で新しい話が持ち込まれます。
東芝EMIから宇多田照実への直接の依頼です。(そのとき、まだ棚上げになっていた)「Precious」の曲調で日本語の歌詞をつけると
「これは、新しい音楽になるんじゃないか」
というのが持ち込まれた主題です。(音楽業界的には、小室哲哉との対抗という意味合いがとても強くあったようです)。それには、物語性にとんだ売り出し戦略が用意されていたのです。謎の天才少女「宇多田ヒカル」でデビューさせようという企画です。これで、ヒカルは謎の海外帰国子女になるのです。この企画は後々には、すこぶる後味の悪さを残すことになるのでしょうが、企画した担当Dしてみれば
「それは宇多田家のことだから」
と口をつぐむしかないのです。
ここで宇多田照実が大きく反応します。はじめてのことです。ひとつは原盤権など宇多田がいつも固執する権利が確保できたこと、ついで製作費の支給などきわめて有利な条件が提示されたのです。しかも自分を通しての依頼です。
「その曲に、日本語の詩を作ってみたら」
という声を最初にかけたのは自分だったという、ある種の先行感が強く働いたとも言えそうです。
それに宇多田にしてみると「日本語の歌詩」は、「日本語の菓子」という言葉のように聴こえおいしい世界を届けてくれそうな気がしたのかもしれない。実際すぐにその通りになったのです。
98年にメジャーデビューした宇多田ヒカルは、同年末にデビューシングル「Automatic/time will tell」で、ダブルミリオンの大ヒットを記録します。1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え(オリコン調べ)、日本国内の歴代アルバムセールス1位になり、たちまち時代のスーパースターとなっていきます。それは、もう、「一夜で有名になった」ような出来事です。
どうしてこれほどまでにヒットしたのかといえば、それは小室哲哉の
「これは勝てないと思った」
という声がすべてを物語っているのかもしれない。本物のポップスが日本に生まれたのです。それは藤圭子の意図通りのことでした。予言のようにことは、起きたのです。
「あたしアメリカでロックを歌うの」、20年前、八代亜紀に告げた夢をなぞるような出来事。
けれど、やがて夫・照實の意向により、藤圭子は完全に表舞台から消えてゆくのです──。藤圭子の幸福は、どうしてか足を取られるように長続きしてくれないのです。少し違うかもしれないが、不幸に追いやられたというと言い過ぎだろうか。
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