テレビ局の公開番組のシーンで、純子がやってくれる。すごいよ、タンカだよ。
「なんだよ、オメェら」
「これじゃあ、サラシ者じゃねぇか」
「この世で、親父を馬鹿っにできるのは、娘のあたしだけなんだよぉ」
いやあもうたまりません。
「不適切にもほどがある」第6話です。クイズ番組で笑い者になっている父親、小川市郎(阿部サダヲ)のドジを見かねて、純子がかまして出るんです。
「なんだよ、オメェらよぉ」とはじまると、これが、もう壊れたように感動を生む。
どうして壊れたように感動を生むかと言えば、それはタイムマシンのハードボイルド効果。否応なく、ホントを突きつけてくる。まるで芝居っけを感じさせないんだ。目の前に起きているのはホントのことで。純子は、俺のために言ってくれている。と、テレビを見ている「父や母」に当たる人は思うのです。そこで、思わずこころの壁が壊れるのです。
前回「父や母にも、父や母がいる」で、ぼくはタイムマシンは映像のハードボイルド表現を作り出すと書いたのけど、つまりその通りの効果。なんの忖度もなく、ぶっきら棒に次々と出現する現実が、陳腐なドラマ性を吹き飛ばし、ホント性が動き出すのです。
そして、ロングセーラー服姿という見かけ倒しの虚構は見事に壊れ、アバズレ純子は天使になるのです。(これも、このドラマの答えにいずれ重なっていくはずです)
この「タイムマシンのハードボイルド効果」というぼくが名付けたタイトルは、ドラマを見ていないとどうにも説明のしようがむづかしいが、虚構とかわざとらしさというドラマの約束事をぶっ壊す装置だと思ってください。そう思うと簡単でわかりやすい。作者の宮藤官九郎の意図も、つまりはこの通りだと思います。
現実は、ドラマのようにタイムマシンで愛をあちこちに運ぶことはできません。だから目の前の愛を大切に、という大きな答えがポカリと空高く見えて来ます。(というわけで予想、きっと小川市郎が コーチをしている野球部のグラウンドの上に飛ぶボールがラストになるよ。当たるといいな)
話しはだいぶ戻りますが、宮藤官九郎はかつてNHK「あまちゃん」の主題歌の中に突如「1.000円返して」という生々しい言葉をわざと差し込んでリアリティを呼び込もうとしました。その立体版だと思うとわかりやすい。
「キレイ事に流させないぞ。いつでも現実に引き戻すのだ」というポリシー。もはやリアリティはハードボイルド効果からというのが、クドカンの作劇システムになっているのでしょうね。
「17歳に、昔話なんてないよなあ」
純子のこの切なさも受け手をいよいよ混乱させて、うーん、うまい。ただただ、感心するばかりです。
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