「昭和の芸人たち2」
○2006年9月12日の日記再掲載
トニー谷、戦後の芸人の中で、この人ほど書き辛い人はいないのじゃないのかな。とにかく難しい人なのだ。ゲテモノ芸人という言い方でカタをつけようとする人も相当いるが、「よせやい」ひと時代を作った芸人なんだよ、キワモノにするのは浅はかじゃないかと言いたくなる。
芸人として目立ちはじめたのはアーニーパイルから(アーニーパイルというのは東京宝塚劇場が駐留軍に接収されて命名された駐留軍向けの劇場。ここからたくさんの戦後芸人が育った)。ナベプロはこの劇場の音楽担当からはじまった。
トニーの出番はショーの合間をつなぐMCなのだが、板の上から外人に次々と憎まれ口を英語でまくしたてた。軍人たちとのスラングまじりの英語で口喧嘩、これが大評判。
それを表の芸に持ち出したのが、いわゆるトニグリシュ。英語まじりの人を食った日本語でのっけから、客を飲んじゃた。
「おれの芸がわからない人は、パーざんす」ってな調子だ。
何を言われようとヘイチャラ、平気の平佐でもっとやる。
古い人には嫌われたそうですよ。
かんたんに言えば生きてる「国賊だ」。
「レディス&ジェントルメン、おはよう、おこんばんわ」って飛び出してくるんだから、敗戦をよしとしない日本人のこころを逆(さか)なで。ペロンちょだ。すぐ近くのガード下でお稼ぎの有楽町のお嬢さん方と同じと思われたのだ。
「あんなものは狩り込んでしまえ」だったのだ。
ところが、これに学生が食いついた。
早稲田の大隈講堂で、音楽ショーの後に、漫談オンリーのロング・トークショーをやり学生客を1時間超もひっぱっりまくったというからおどろきだ。
さらに、ここでまた一発「あたしのね、話しだけで、ショーをつくるからよろしくね」だと。
映画に飛び込めば次々と流行語の大連発
「ざんす、ざんす、さいざんす」
「あれも、これも…家庭の事情(じじょう)」
どれも上のワンワードで一本の映画ができる。同年齢の伴淳などをすっかりうんざりさせていた。
トニーの勢いに「俺ら、どうしようもねぇんだ」の嘆き節。
くさい英語は味付けと割り引いても、スピードと攻撃性は大変なものだった。
しかし人気絶頂のここで誘拐事件が起きる。息子の誘拐だった。
トニーはカメラの前で泣いて懇願した。
「息子を頼む…なんとかしてくれ」
すっかり憔悴したトニーの姿を見て、つきもののように人気は落ちた。実はトニーの人気の軸だったのはお構いなしの攻撃性、それを失った姿に、すーっと人気は離れていったのだ。
「トニーも、普通の人か」
と世間はとらえたのか。いやはや芸人とは因果なものだ。
そのあとハワイに住んでいるとか噂はあったが、実際はわからない。「家族そろって歌合戦」というような番組だったかな。
ソロバン片手に
「あなたのお名前なんてーの?」
と司会をやって一時的に大爆発するが、突然の人気もこのシリーズで終わり、ときどき金髪のカツラで現れて毒気を見せるがもう大当りすることはなかった。
客とも、回りの芸人とも、喧嘩をしまくっていた芸人トニー谷の喧嘩根性はゆたかな時代の到来とともにから回りをはじめたということなのか。林家三平が入れ替わるように登場することが、時代感の変わり目を伝えてくれる。
○
ところで「昭和の芸人史」の中で、小林信彦は「トニー谷は、タモリの先駆け」と位置づけている。これはなかなか面白い意見ではある。
既成の芸に、まるではまらない。インテリ変化球のような芸のタッチ。
それに、(付け足しだがどちらも)コメディアンとしてはなかなかムズカシイ下半身の弱さがある。
小林信彦が後輩、タモリの登場時、あまり買っていなかった節はある。あるがそれにしてもこの意外な結びつきには意表をつかれる。トニー谷側から見れば、国民的コメディアンになれたのかもしれないと思わせるし。そういえばタモリもはじめは毒の強い芸人だったのだ、と気づかせてくれる。
タモリの毒は次第に「粋」な芸に進化していくのだが、トニー谷の方は進化し損なっていく。言葉は悪いがいささか自家中毒の様相さえ示していく。コメディアンというのは時代に揺さぶられて、先行きが定まらないところがある。
トニー谷は、その幸福でない一例なのだろうか。
後年、赤塚の「おそ松くん」にイヤミが登場して来た時
「アレェ、これ、トニー谷じゃないの」
モデルというより、ままトニー谷だという評判さえ流れたのだが、それもこれも縁なのかな。シェーッ。
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