◯2010年12月7日の日記再掲載
(タバコをやめる直前の文章、この文章のテーストが僕らしい。特にラスト、少しは真っ当な感じがする。ここんとこ汚い男ばかり書いているので、汚れ落としです)
ぼくは、10月からほぼタバコを止めている。ほぼというのは、「1日に2本だけ」吸う日があるからだ。
顔を合わすと
「どぉ」
1本、差し出す仲間いるのだ。そして、別れ際(ぎわ)
「どぉ、帰り道」
と、もう1本、出してくれるのだ。
ぼくはもうこれに抗う術(すべ)もなく、
「ありがとう」
と吸っている。
1本目を吸うと、ぼくは目眩を憶え、立ちくらみまでする。倒れ込みそうになり、近くの物に手をかけたりする。はじめてタバコを吸った中学生のようにね。
中学生のそれは大人に化けていく自分を仮体験するということなのだろうが、この年になるともうそれは自己崩壊の体験そのものでしかない。
「こうして自分の意識が自分から離れていく。こいつが少し長く続けば死というものかもしれない」
などと、ランボーのように、中也のように、自己崩壊を楽しんだりするぼくがいる。
かつてぼくは
「1日に2本だけ
煙草を〜吸わせて〜」
この歌い出しに痺れてしまったことがある。
なんてことはない、いつものように歌謡曲の詩なのだが、ぼくはこのフレーズに
「いつかこんな詩が書けるようになるだろうか」
気持ちを吸い取られてしまった。
銀座が華やかな頃、売れっ子のホステスだった女性が気質(かたぎ)の人の女房になる。前身をさとられぬように、煙草をやめる。好きな人と一緒になり、穏やかな暮らしをはじめたのだが、それは時に大事な何かを失ったようにも感じる。
退屈な時間、これからさほど変わらないであろう毎日。気怠るさ、ひかえめな言葉。
もしかしたら、その大事な何かとは自由というもので
「1日に2本だけの煙草」の煙りの中にしか、最早、後戻りできない女の誰しもがいつか失なわざる得ない自由という物の感触を確かめることはできない。というような情景を一瞬にして感じてしまったからだ。
そんなことを思い出しながら、「1日に2本だけ」煙草を吸っている。
2本目の煙草はひどく現実的で自己崩壊などという詩的産物をあまり呼び起こしてはくれない。それは、帰り道だからだろうか。
帰り道は、いつの時代でも現実的なものだ。
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