◯2007年04月03日の日記再掲載
小学校の校庭は、東西に長く伸びていた。東のはずれには、砂場がありその片側、西に面した位置に鉄棒があった。
ぼくは、まだ小学生で、そのいちばん高い鉄棒はぼくらの背よりずっと高い位置にあって、それは見上げるほどの高さで、ぼくらには文字通り手の届かない、いわば憧れの棒だった。
「きーちゃん、鉄棒を教えてあげるよ」
放課後、時々ぼくらが出て来るのを待っているお兄さんがいた。きれいな体操のユニフォームを着て、手にはテレビでしか見たことがないカバーを付けて運動場でニコニコ、ニコニコ待っているのだ。
稲川のお兄さんという名前で、とても景気のいい家具屋さんの末っ子、高校の体操選手になったばかりだった。背は小柄だけど、運動神経は抜群で、もっとぼくらが小さい時には回転や側点を教えてくれたものだった。
「まず逆(さか)上がり、そして蹴上がり。このふたつが基本。これができたら、次々できるようになるよ」
そうして次々と見本を見せてくれます。
クルン、クルン。シュルン、パッ。どれもいともあざやかにやってくれます。
次にぼくらの尻を押したりしながら教えるのですが、ぼくらの中でその場でできるようになるのは、ほとんどいません。
「また教えるよ」
稲川のお兄さんは、そう言って最後にいちばん高い鉄棒で大回転をやってくれます。
ビューン、ビューン、ビューン。
それは、それは、小柄な体をとたんに大きく見せる大回転で、砂場のウシロ、夕陽を真正面に見ているぼくらには、一回転毎にまるでお兄さんのカラダが真っ赤な夕陽に飛び込むように見えたのです。
「お、おっー、きーちゃんじゃないか」
久々に母親のところに行った時でした。何十年ぶりでしょうか、駅のそばのパン屋の前で、稲川のお兄さんに出会いました。
まっ白いヒゲで、少し腰をかがめて、軽く手をさし上げました。
実は、その何十年もの間、稲川さんにはいい話しはあまり聞いていません。体操選手になり損なったこと。学校をでてから、ギャンブルに凝って家の財産を相当に食いつぶしてしまったこと、中年過ぎになって酒をおぼえあっという間にアル中になってしまったことなどです。
でも、ぼくは、本当の原因を知っています。上の二人の兄弟(兄と姉)がとても勉強ができて、末っ子の稲川さんは、体操で上の二人に対抗したかったのです。
それが、かなわなくなったお兄さんのこころには、底知れない屈託が生まれたのです。(上の二人は早稲田で、お兄さんは体育大を中退しました)
その屈託はずーと何十年も続いて、土地付きの工場だけでも数カ所あったあふれるような家具屋の資産を
「おい、遺産の食いつぶしもここまでだぞ」
と兄弟からしっかりと引導を渡されるまでになったのです。
なんてことだ、とぼくは思う。
あの大回転が頂点を迎える時、不意にやってくる無重力。それがお兄さんの人生を変えたのだと感じるのです。胸にスースーするあの無重力は、現実から離れる魔でもあり、不思議な自由の体験でもあるのです。
お兄さんのこころに底知れない屈託がやって来ると、逃げ込むようにあの時の無重力が生み出す自由を再現したくてギャンブルや酒をはじめたのです、きっと。でもね、無重力というのは現実の世界では、いつも崩壊に近い現象を生むのです。
ほら、目の前には崩壊しかけた老人がいる。ぼくは、泣きそうです。
「稲川さん、カラダに気を付けてください」
ぼくが、やっとそう言うと
「きーちゃんに言われると弱いなあ」
そう言いながらトボトボと商店街を歩いて行きました。
背中越しに、あの日のように西日がキラキラ、キラキラ光っていました。ぼくは、やっぱりあの日のように夕陽に向かって行く稲川のお兄さんをずーっと見つめているのです。
◯稲川さんはこの文章の7〜8年後位、アルコールによる肝障害で亡くなりました。実家の家具屋さんは、工場だけでも数カ所、店も数軒あったのですが、主な制作物の電話の配電盤が木製から金属に変わることで勢いがなくなりました。資産も(お兄さんだけでなく兄弟全員の取り崩しもあり)跡形もなくなくなったそうです。
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