「連帯を求めて、孤立を恐れず」
これが、`70年の時代の言葉と言って良いのだろう。さて藤圭子はどんな「連帯の声」を上げることができるか。それを社会はいまかいまかと待ち望んでいた。当時流行りの学生口調をなぞれば、まさしくこんな様子になるだろう。
少し言葉を変えてみよう。かたよらない世間一般の言葉にね。
`70年、社会現象になった藤圭子は次になにをなすべきだろうか。相当の難問だったことはまちがいない。
(いま思えば)石坂はもはや掴めなくなっていた。フラフラになっていた。けれどそんなことはおくびも出さず、石坂がグィと強気で持ち出してきたのが「命預けます」だった。任侠演歌という路線だ。
レコードディレクターの榎本は大反対をした。
「藤圭子は、時代のアイドルなんだ」
「どうしてマーケットを小さくする必要があるんだ」
榎本の主張はきわめて妥当なものなのだが、ではなにをやるのかのところで沸騰し、石坂が半ば力で押し通した。
「なにかお預かりするものはありませんか」
みんなで仕事帰りに寄ったレストランのクロークで、そう声をかけられた。
「なにもないよ。なんなら命でも預けようか」
と横合いから藤圭子は答えた。
「おやっ」と圭子が、石坂の方を振り向くと
「よし、やった」という顔をしていた。
これが「命預けます」のきっかけとされているのだが、榎本の
「前から任侠映画が好きなんですよ。いつかやってみようと考えてだけなんですよ」
というあたりが正しいのだろう。歩いて5分、新宿3丁目の新宿東映は、もはやラストランを迎えそうな東映仁侠映画路線の最前線だった。
石坂は「命預けます」で分解しそうなチームの気運を、藤圭子のエピソードでまとめあげようとしたのだろう。
結果はオリコン3位が最高だった。ついに1位を手放すことになった。
売れることは売れたが、時代はすっと離れていった感触があった。圭子の迫力だけでここまで売った曲と言って良いのだろう。榎本の言葉に添えば、自らマーケットを小さくしてしまったのだ。
では、どうすれば良かったのか。これも藤圭子は、ほとんどわかっていたのだと思う。
「昨日マー坊、今日トミー、明日はジョージか、ケン坊か」
この生々しい実在感を再現できるのか。これが必要なすべて。`70年代とは、街角の実存主義の時代なのだ。人は架空のロマンなどより、くっきりとした存在感を求めていた。そうとらえれば、五木寛之が言う
「歌の背後から血がしたたりおちるような迫力」
を持ち続けることができるし、そこに藤圭子の歌の命がかかっている、という言葉に見事に呼応することにもなる。
藤圭子現象とは、新宿アートの最果てに生まれた、現代詩の奇跡なのだ。そうとらえたら一気にわかりやすくなるだろう。
そこらにへんにある他愛もない物言いや小事件の中に潜む時代を、演歌が探り出したという稀有な例と言って良いだろう。とすれば、生きた現代詩を探し出すことなのだ。ヒーローも、ヒロインもいらない。新宿の(いまなら東ヨコか)、名も無い青春の、名も無い詩を歌うのだ。
後のことになるが、藤圭子は二丁目の売リセンバーでの豪遊が噂になった。しかし、圭子がやっていたことはホストから人生のドキュメントをつぶさに聞き出すことだった。ホストはおそれ慄(おのの)いていたそうだ。圭子は生きた現代詩を探し出そうと躍起になっていた、というのが真相だろう。
わたしのカラダを わたしが売って
どこが悪いと 言うあの子
「東京迷路」という歌がある。20代でこの歌の詩を歌わせたら世間はどんな反応を示しただろうか。当時でも、
「紅白歌手にこんなナマナマしい詩を歌わすのはイクラなんでもひどいじゃないか」
という声がフアンからもあったはずだ。もはやノスタルジーの切り売りでも充分生きていけるキャリアだったし、なにもそこまで突っ込まなくてもと人は思う。
だが、街角の現代詩への切り込みを忘れることができないし、まわりも藤圭子を前にすると、思い切りムキになるのだろう。
藤圭子は、生きる現代詩だったのだ、少なくとも`70年代は。それは本人がそのことを知る知らないを超えて、運命だったのかもしれない。
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