ここで何本に一本か、ちょうど新原稿の間に櫛の歯のように再掲載原稿をアップさせてもらっています。そうしているのは、自分で読み返してみて「よく書けているじゃないか。もう一度、読んでもらいたいな」というのが素直な気持ちです。
文章の中には17年前の自分がいて、その時の思考回路や視点がいま見ても陳腐でないか、ズレていないかということを知りたいという気持ちも同時に発生しています。五木寛之の「風に吹かれて」に触れた時、そうだね、ぼくも五木の50年には到ってないけど少しでも世間の風に触れたいものだ、と後追いですが重ねて思いました。
文章というのは、風化します。簡単に言えば「時が経てば合わなくなる」のです。これは音楽や演劇、ドラマ、どれを見ても同じことで表現というものの宿命だと思います。
けれど風化せずに、俗な言い方ですが時を超えていく文章もあります。それは、現象にとらわれず、ことの本質を追う視点がしっかりしていることです。
現象というのは、例えばファション、写真が残っていかないのは陳腐化するファションのせいだと言って良いかもしれません。
人間を追うという行為は、いつの時代でも通俗ではない人の本質をを探る行為です。中でも文章というのは、人の心にある抽象を言葉で具象化する行為なので、書くということがそのままことの本質に肉迫する作業ということになります。
こりゃいけないな、世間迷惑な抽象論になってきた。よせやい。
17年前の文章をほばそのまま(若干修正はあるものの)掲載しているのですが、文章自体、古びてはいませんよね。
17年前のぼくは、どんな人間だったのだろうか。いまと違うのか、同じなのか。答えが欲しいと言っているのではありません。つまり、本人には自分への茫洋とした疑問がいつもこころの中にあるのですね。
えらそうに見えたらすいません。よくもまあ、また書きたくなったものだ。不思議だなあ、という感慨を込めてしみじみの一文です。
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