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2023年05月23日18:05

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たけしの、シャドー・ボクシング。

 シュッ、シュッ、シュッ。
 シュッ、シュッ、シュッ。
 公園でシャドー・ボクシングをしている。繰り出すパンチの先には誰もいない。シャドーだからね。けれど大量の汗がほとばしるほど拳を繰り出し続けると、本人だけにはどうやら相手が見えてくるらしい。憑かれたように真剣な表情になり、視線は空中に確実に相手を捉えている。

 たけし映画の暴力は、なぜ心に残るのか。上映されるたびに話題になりますが、ほぼすべてが生煮えの議論で終わっています。
「なぜ心に残るのか」という言葉をきちんと意味のあるものにすると、「どう時代を映しているのか」という言葉になります。表現とは、時代に関わることではじめて意味を持つのです。簡単な例として、時代劇でさえ良し悪しは現代に置き換えて判断されます。

 では映画を見るオイラは、あなたは、たけし映画の暴力にどう時代を感じているのでしょう。それはね、現代という虚空に怒っているのです。どこにも正体は見えないが、なぜか腹が立ってならない現代という野放図にデカイ虚空。

「誰でもよかった、殺したかった」
「なんでもいいから暴れたかった」
 それは、通り魔事件であったり、無差別事件は、なぜ起きるのかという答えでもあります。

 現代という複雑なシステムの中で、人は知らぬうちに矯正されています。
 辱めを受けている、だがどこに怒りを向けたらいいのか。心が、屈折させられている、不自然な姿勢を取らされている。さあ、どこと戦えばいいのか。
 ぶ厚く複雑な現代社会ではどうにも矛先が見つからない。行き場の無い拳、行き場のない拳銃。ときおり目の前に対象がいたとしましよう、しかしそいつを殴り倒したところで、矯正の根元はまるで変わらないことはわかり切っている。
 そういう虚空、それが、現代という社会の構造です。

 たけしは、画面の中でほぼ無感動に暴力を発動します。でもその暴力の底には、ある意識が確実に張っています。単なる無感動とは違うある意識。それを知らぬ間に観客に意識させるところが、たけし映画の主旋律です。

 説明を拒否しながら、実は説明しています。

「HA・NA・BI」の殺しの奥底にあるのは、あの永山と同じ、時代への反抗です。
 たけしは、あのカットでジャズ喫茶を昼夜交代で勤めた永山則夫を投影しています。もしひとつ間違えば、永山だった自分。例えばこんな理由なら、どうなんだ。殺人鬼の奥底に眠る言葉を探します。
「いつか俺も死ぬ。しかも、俺には死んでもいい理由がある」
同じように新宿の底辺を生きた自分に当てはめたひと言が聴こえそうです。。

「その男、凶暴につき」「3-4x7月」「アウト・レインジ」などたけし映画の暴力には、必ず対象の向こう側に届く暴力、突き抜けていく暴力という感触がいつもあります。それは、現代の殻を突き破ろうという、たけしの意志が基調にあるからです。

「キッズ・リターン」は、少し違う視点を持っています。喧嘩は強いがボクシングは弱い、ボクシングは強いが喧嘩は弱い。主人公の二人の持つ、暴力の意外性。(想像ですが)これは小林宏という特異なボクサーの話が下地になっていると思います。暴力は意外なところからはみ出してくる、という視点が全編をカバーします。

 たけしと同じテーマを抱える映画はといえば、アントニオーニがすぐに浮かびます。アントニオーニは愛の不毛を訴え、たけしは現代の不毛を訴えている、というのがぼくが映像から受ける感触。アントニオーニ映画のモニカ・ヴィティ、あの乾いた表情はいますぐにでもたけし映画の中央で、ドアップで、ハマルでしょう。(これが、たけし映画が、なぜヨーロッパでハマルかという答えです)

 人は乾いていて、人は生きてる東京砂漠で、けれど「わかちゃいるけどやめられない」人生を送るしかないのだろうか。反攻の種子を探す、たけし。
「上島、売れなくなったら売れなくなったで、ボロボロになって生きていけばいい。俺は、そう教えたはずじゃないか」亡くなった上島竜ちゃんへの嘆きに、答えが見えてきます。

「オイラ、時代なんて信用していないよ、友達なら信用する」
 たけしが映画の中で目指しているものは、現代の奥底に届くようなリーチの長いパンチ。人は奥の方でさみしいんだ、これが本当のテーマで、少しでも強くリーチのあるパンチを放つためのシャドー・ボクシングを繰り返しているんだよ、という映画です。
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