「姉さん、少し長生きができなくなったよ」
「そうかい、そんなこともあるさ」
女の言葉を聴き、クルッと振り返る男に
「来週まで生きていたら、少し望みを叶えてあげるよ」と言葉が飛ぶ。
「グリスビーのブルース」は、男というのは少しばかり長生きができなくなっても仕方がない生き物だと教えてくれる素晴らしい映画があって、その映画の主題歌で、紛れもなくブルースです。
どうしてかって、それはね(ほとんどが禁止用語、禁止思想ばかりなのだが)きれいな女がいて、素晴らしい音楽があって、少しばかりの酒があって。そいつを味わったら、ほらもうあんたの役目はすんだじゃないか、そいつをサラッと教えてくれる映画なのさ。つまり、美しい主題なのさ。
「え、それはなんなの、なんのことなの」
女子供はこれだからな、いけねぇな。
「わからないか、わからなけりゃあ映画を見ろ」
これが、ベストな答え。映画のタイトルは「現金(ナマ)に手を出すな」です。
この映画は粋の極致、「刹那の粋」でできている映画です。生と死、その端境(はざかい)を平然と行く男。その表情には、いつも「刹那の粋」がよぎります。
(おい、なにを怖がるんだ、もう十分、堪能したと気がつけば怖いものはないはずだ)
無表情のジャン・ギャバンが、無表情で語っています。
(この映画の「刹那の粋」とは、近松の心中物と同じ精神によるものですが、これを話すと長いので、戻ります)
さて頭から、(いいよ、ここが最高だよ)
次の仕事のために小さなレストランに集まる(ギャング)仲間たち、
「どうも邪魔が入っているらしい」
というちょっとした不安を抱えながらやって来ている。そのため、会話は少し重くなる。
なんとも言えぬ嫌な感触を断ち切るように、ギャバンがジューク・ボックスに近づいていく。コインを入れると、アームが動きドーナッツ盤が抜き出され(ここのアームの動きがまさに芸術だ)、針が落ちる。
ドーナッツ盤が音を出す、同じタイミングで「グリスビーのブルース」が流れ出す。
あっと驚くような間が生まれ「グリスビーのブルース」はスクリーン裏から、ミストのように客席に忍び込んで行く。観客のわずかな呼吸の間に、ブルースのミストはカラダにしみていく。
世の中で、これほどセンチメンタルで、美しい瞬間はちょっとない。
この瞬間を味わうだけでも映画人生が尽きると言って良いくらいだ。
「画と音をシンクロさせただけの単純なテクニックじゃない」
など小さく利口な人々が言い出しそうなんで、脳天にちょいと釘を打っておきます。
つまりね、この間を作るために、監督から、カメラから、役者から、大道具からはたまた編集まで含めてね、作り上げているからあの完成度が生まれているのです。
「画と音をシンクロなど軽くいってるボクたち、やってみるといいよ」
(ここのアームの動きがまさに芸術だ)と書いたところを説明、無駄のない動きが主人公たちの名うてプロらしい仕事ぶりを感じさせ、反対に、音のない動きが無意識のうちに近づく失敗を暗示させます。生き物ではないマシーンなんだけど見事に芸術的な動き、演技になっています。
「グリスビーのブルース」の流れるカットの中で「刹那の粋」は決まってほんの半秒(はんびょう)ほどのきらめきを見せます。この半秒(はんびょう)という感覚が当時の映画の美学に叶うものなんだろうと、ぼくは思います。
(どのカットか、そいつは映画に聴いてくれ)
注1:アームの動きが一例です。
注2:文頭のセリフはオリジナルで映画にはありません。
ログインしてコメントを確認・投稿する