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2021年07月13日13:25

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加東大介さんの『南の島に雪が降る』

 七月五日の日記で加東大介著『南の島に雪が降る』のことは少し触れているが、改めてちゃんと書いておきたい。そうしたいほどの名著だから。

 そもそもの読むきっかけは、五月三十日放送の「村上RADIO」。番組の最後に村上さんが映画『七人の侍』の加東大介さんのセリフが紹介した。
「侍は攻めるときにも走る。退(しりぞ)くときにも走る。走れなくなったら、それは侍が死ぬときだ」
 放送を聴いたときは、ああ、いいセリフだなあと思っただけだった。しかしその直後に観た『人情紙風船』に若いころの加東大介さんが出演していて、急に気になりだした。加東大介さんは黒澤明作品の常連であるばかりでなく、信じられないくらいの多くの映画に軽快な演技でバイプレーヤーとして出演している。ぼくが大好きな作品は成瀬巳喜男監督の『女が階段を上るとき』である。
 それで、これだけ著名な俳優であれば自伝の一冊も書いているだろうから、それを読んでみようと思い立った。ネットで調べたら『南の島に雪が降る』というタイトルの本がヒットした。著書はたったこれ一冊だった。意外な感じがしたが、まあ、これが自伝なのだろうと図書館で借りた。
 自伝ではなかった。戦争体験記だった。それも、第二次大戦末期に応召してニューギニアに赴任した加東大介さんが、現地の兵士のための慰問劇団「マノクワリ歌舞伎座」を立ち上げ奮闘するという仰天するような内容だった。巻末解説の保阪正康さんによればこういうことになる。
「この体験記からは一発の銃声も聞こえてこない。戦闘行為による殺傷の姿も見えてこない。つまり軍事という側面はなにひとつえがかれていないのだ。だがこれほど〈戦争〉を語った体験記はない」
 まったくそのとおりで、演芸に心得のある者を集めて兵士に披露するのだが、上官からはこう激励される。
「しっかりやってくれよ。きみたちは演芸をやっているだけじゃないんだぜ。ここの全将兵に生きるハリを与えているんだからね。娯楽じゃない。生活なんだよ。きみたちの芝居が、生きるためのカレンダーになってるんだ。演分は全支隊の呼吸のペースメーカーだぜ。そのつもりでガンばるんだ」
 そしてじっさい、そのことを裏づけるエピソードがつぎつぎに報告される。
「『もうダメです。いろいろ、ご厄介になりました』
『バカ野郎ッ。こんどの歌舞伎座は、すごくおもしろいっていうぞ。お前、見ないで死ぬつもりかッ!』
 班長は耳もとで怒鳴りつけた。すると、
『ああ、そうですねえ。見なくっちゃ……』
 と気をとりなおしたというのだ」
 読んでいて、ぼくはふと村上春樹さんの「どんな状況でも人は楽しめる何かが必要です」という言葉を思い出した。
 日本の無条件降伏を知り、もう芝居どころじゃないと思っていると、上官に今度はこう言われる。
「これからは、兵隊たちの気持に、ますますメドがなくなるときだ。演芸でつなぎとめるしか、方法がないじゃないか」
 加東大介さんはなるほどと思い、さらに芝居を続けることを決意する。しかししばらく経ったある日、芝居の最中に進駐軍からの連絡で、復員船がくることを知る。
 加東大介さんはそれを客席に伝える。するとドーッと歓声があがり、つづいて拍手がわきおこる。加東大介さんが続けて客席に向かって言う。
「『それで、まだ幕は残ってはおりますが、ただいまをもちまして、演芸は終了せよとのことであります』
 すると熱していた客席が、とたんに冷え落ちた。スーッと静まりかえって、セキばらいひとつ聞こえない。並んでいる顔……顔が、表情を失っていた。が、一人がなにかを叫んだのをきっかけに、獣の声に似た喊声が爆発した。
 怒っているのか、泣いているのか――怒号とも号泣ともつかない奇妙な音響のルツボだった。いつのまにか、観客は立ち上がっていた。と見たら、喊声はそのまま『蛍の光』に変わっていた。両ソデから分隊員たちがそれぞれの扮装で走り出してきて、わたしの左右にならんだ。
 みんな歌った。声をかぎりに歌った。泣きながら合唱がつづいた。
 わたしたちは、自分の腕のなかで息をひきとっていった大勢の戦友たちの、軽い体重を想っていた。そして、半面では、遠からず会える内地の家族のことを考えていた」
 読んでいたのは電車のなか。ぼくはワンワン泣きたい気持ちをグッとこらえた。
 ネットで調べてみると映画化もされていた。伴淳三郎さんやフランキー堺さんや渥美清さんや森繁久彌さんが出演している当時のオールスターキャストだった。がぜん興味が湧いた。
 そしてそれはネット上にアップされていた。映画は、よくあるケースだが、本のいくつかのエピソードを映像化しただけのダイジェスト版で、とても物足りないものだった。しかし映画の存在を知り、観たくなったその日にあっさりと観られたことについては、ネットに感謝するしかない。

 後世に残すべき一冊だと思う。
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