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2019年11月29日23:52

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点鬼簿之雑談帖(その147)―中曽根元総理の訃報

中曽根康弘元総理大臣の訃報が伝わりました。享年101。最近言われだした、人生100年時代を地で行くような御長命で、ある意味羨ましい限り。尚且つ所謂認知症の類もなかった様で、それだけであやかりたいものでありますね。

<引用開始>

中曽根康弘元首相死去 101歳 戦後5位の在任「ロン・ヤス」、国鉄分割民営化

 戦後歴代5位の首相在任記録を持つ中曽根康弘(なかそね・やすひろ)元首相が死去したことが29日、分かった。101歳だった。大正7年5月27日、群馬県高崎市生まれ。昭和16年に東京帝大卒業後、内務省に入り、戦時中は海軍に勤めた。22年1月に内務省を退職。3カ月後の衆院選に初当選し、連続20期56年間、衆院議員を務めた。憲法改正を生涯のテーマに掲げ、現行憲法を批判する「憲法改正の歌」を作詞したり、首相公選制の導入を訴えたりした。原子力の平和利用の推進にも尽力し、原子力基本法制定の先頭に立った。

34年、第2次岸信介改造内閣の科学技術庁長官で初入閣し、その後も運輸相や防衛庁長官、通産相、自民党総務会長、幹事長などを歴任。55年、鈴木善幸(ぜんこう)内閣の行政管理庁長官として行政改革の旗振り役を担った。57年11月、第71代首相に就任し、新保守主義に立脚した政治を展開した。外交では、鈴木内閣末期に関係が悪化していた韓国と米国を就任直後に相次ぎ訪問し、修復に努めた。特に米国とはロナルド・レーガン大統領(当時)と「ロン・ヤス関係」を構築し、自由主義陣営の一員として日米同盟と反ソ連体制を強化させた。

内政では行政改革を中心とする「戦後政治の総決算」を掲げ、電電公社、専売公社、国鉄の「3公社」の民営化を推進した。在任中にNTTとJTを発足させ、国鉄分割民営化法を成立させた。60年8月15日、靖国神社を公式参拝した。中国や日本国内の一部メディアの激しい批判を浴び、翌年は参拝を見送った。

政権の当初は党内基盤が弱く、田中角栄元首相の影響が強かったことから「田中曽根内閣」などと皮肉られた。61年、野党の警戒をかわすため衆参同日選を否定し続けながら「死んだふり解散」を断行し、自民党圧勝に導いた。その功績で党総裁の任期が1年延長され、62年11月に竹下登幹事長(同)を後継指名して退陣した。在職日数は1806日。

中選挙区制時代は群馬3区で福田赳夫元首相と戦い、「福中戦争」「上州戦争」といわれた。小選挙区比例代表並立制が導入された平成8年の衆院選からは比例代表北関東ブロック「終身1位」で扱われた。9年、存命中としては吉田茂、佐藤栄作両元首相に次ぐ戦後3人目となる大勲位菊花大綬章を受章。「私の心の中には国家がある」「政治家は歴史法廷に立つ被告である」などとして「生涯政治家」を掲げ、15年に自民党の定年制問題に絡んで議員を退いた後も、自らが会長を務める公益財団法人「中曽根康弘世界平和研究所」を拠点に政治活動を続けた。22年2月から本紙で「転換への挑戦」を執筆、24年に正論大賞特別賞を受賞した。

昭和42年から46年まで拓殖大総長。このほか、高松宮殿下記念世界文化賞国際顧問、新憲法制定議員同盟会長、NPO法人「富士山を世界遺産にする国民会議」(富士山会議)会長なども務めた。中曽根康隆衆院議員は孫。

<引用終了>

出典Web:https://www.sankei.com/life/news/191129/lif1911290025-n1.html

日本には亡くなった人に対して、悪く言わないのが一般的な通例なので、他の新聞の記事をインターネットでみても、そうそう批判的な事は書かれていませんでしたが、在職中のマスコミ方面の攻撃は凄かったですね。
例の「不沈空母」発言の後は、何処ぞの某ア○女性漫画家が、「アンチ・ナチソネ君」なる、頗るお下劣なタイトルの漫画を堂々と臆面もなく掲載し、明日にも徴兵制が復活し、軍隊の所為で家が一方的に立ち退きを求められてぶっ壊され、というこっち方面の(以下自粛)が嬉しがって使う「グンカノアシオトガー」満載で、わたくしなぞはドン引きした記憶が。

ただ、どうもわたくし中曽根氏は、正直申しまして余り好きになれませんでしたね。ロッキードやグラマンと云った、大掛かりな収賄事件の数々では必ずと言っていい程、関与を取り沙汰されながら、つにに取っ捕まる事なく逃げおおせたのは、恐らく並外れた狡猾ぶりが潜んでいたのでありましょう。また、政策の説明なども、「オレハコンナニアタマガイインダゼ、ドウダスゲーダロー」と言わんばかりの口調に、御馬鹿なわたくしはどうもしっくりこなかった記憶が。

まあ所謂三公社五現業の民営化は、確かにこの人でなければできなかったろうと(当時はこれもボロクソに叩かれたものでしたね)思いますし、業績としては大したものであった、と思いますが個人的な好き嫌いで申せば、色々な意味で気に喰わない―わたくし如きが気に喰わなくたって、どうという事はないのでありますが―御仁ではありました。

それでも101歳という長寿を保ち(尤も「憎まれっ子世に憚る」という言葉が脳裏に浮かんでしまいますが)、認知症等もなく生涯を閉じられたのは、冒頭にも書きましたが羨ましい所。謹んで故人の御冥福を御祈り申し上げます。

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