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2019年10月24日23:12

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歴史之雑談帖(その242)―京都西寺址で講堂の基壇見つかる

今は高い建物が数多く立ってしまっているので、眺望が開けなくなってしまいましたが、嘗ては新幹線に乗って京都駅に近づくと、鴨川を渡ったあたりから進行方向(東京→新大阪方面の場合)の左側に、東寺の五重塔が見えてきて、ああ、古都京都だなあと感じたものでありました。

東寺があれば西寺がある筈、でありますが生憎京都の西寺の方は、早くに廃寺になって仕舞ったそうで。今は地図で見てみると公園になっている様ですが、この程発掘調査が行われて、講堂の基壇が見つかったそうです。

<引用開始>

西寺跡で講堂の基壇出土 大型寺院では初

平安京の玄関口・羅城門(らじょうもん)を挟んで東寺と左右対称に置かれたとされる西寺(さいじ)跡(国史跡、京都市南区)から9世紀前半の講堂の基壇の一部が出土したと24日、同市文化財保護課が発表した。平安京遷都(794年)直後の大型寺院で基壇跡が出土したのは初めて。同課は「平安京の建築史の面から基礎資料になる大きな成果」としている。

史跡の範囲確認のため講堂跡の2カ所で計約150平方メートルを調査した。出土した基壇は粘土質の土と砂を交互に積み上げて突き固める「版築(はんちく)」と呼ぶ工法で築かれており、高さは約1・5メートル。東端の一部と南端の中央部分が見つかり、東西の幅は約38メートルになるとみられる。これは、同規模と推定されてきた東寺の講堂の基壇(約42メートル)よりも一回り小さいという。

基壇の上面からは建物の柱を据えた礎石(直径約90センチ)1つと礎石跡4カ所も見つかった。これらの位置から柱間は東西4・5メートル、南北3・9メートルと判明。東西約22メートル、南北約8メートルの規模の講堂があったと推定した。こちらも東寺の講堂より小さい。出土した瓦から講堂は9世紀前半の建築とみられる。五重塔の想定地も調査。柱の沈下を抑える地盤改良工事の跡が12カ所、碁盤状に並んで見つかり、出土した瓦片などから9世紀後半に工事が始まったとみられるが、塔の心柱(しんばしら)の礎石跡などが出なかったため塔の跡と断定できなかった。

京都府立大の菱田哲郎教授(日本考古学)は「官営寺院にふさわしい規模。講堂と金堂が同規模など、西寺は奈良時代の伝統を受け継いでいたことがわかる」としている。現地説明会は26日午前10時から正午。

西寺 国の安泰を願い造営された官営寺院。9世紀初めに造営に着手し、講堂は天長9(832)年に完成した。正暦元(990)年の火災で講堂は焼け、天福元(1233)年には五重塔も焼失し、後に寺は廃絶する。羅城門をはさんで建つ東寺と堂塔の配置が左右対称に置かれたとされ、建物規模も同じとされた。

<引用終了>

出典Web:https://www.sankei.com/west/news/191024/wst1910240047-n1.html

流石千年の都京都には、色々なものが埋まっているのでありますね、と無知蒙昧なる東夷の末裔たるわたくしは只感心するばかり。もう少し発掘調査が進んで、CGが出来るくらいの材料が見つかると良いのでありますが、どうでしょうか。


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