mixiユーザー(id:2566286)

2019年10月03日13:48

41 view

郊遊 青春神話 花様年華 天使の涙

『郊遊<ピクニック>』と『青春神話』
 都市空間は現在という現実を代理する空間、そこには出口なしの状況に対する憤りが哀しさ、そして時には楽しさを生むものとして表される。人々は愛を求め彷徨い浮遊する。浮遊はポイエシスなヒューマンだ。リー・カンションと家族たち、そして阿澤や阿桂は都市空間を彷徨い浮遊する。泣き笑い怒り楽しむ。我々は始原に導かれる。都市空間には、土地から湧き上がる霊気も表される。『青春神話』で生まれ変わりと言われる李康生のヘンテコな身振りはふざけてやってるようでありながらも実は、ホテルのベッドでキッキと飛び跳ねる彼と同じように、その地がもたらすものが彼に憑依しているのだ。意識してやりながらもなにか無意識に動かされるものが都市空間には在る。水や台風がミンリャンのテクストほとんどに表される。それは浸食してくるもの。しかしそれは、クライシスでありながらも生を喚起させ結びつけるクエストともなる。それは、たとえ克服できなくとも愛を導くものとして在る。『郊遊<ピクニック>』の壁をなめるように表される荘厳なショット、美と醜はどちらもポイエシスなヒューマン。ミンリャンは浄く切り取る。霊と生が聖く交わる都市空間で、人は愛を探し求め浮遊する。交錯する。そこに共感の始原が在ること、導かれている。


『花様年華』と『天使の涙』
 女性が感が鋭いというより、男性が感が鈍すぎるのかもしれない、とレオンをみてると思ってくる。チェンキン・エクスプレスの部屋が片付けられているのをしばらく気が付かないでいるトニー・レオンもそうだけれど、マギー・チャンに彼女の夫に問いただすレッスンを受けさせ彼女を傷つけてしまうレオンは女心を分かっていない。何度もレッスンを繰り返す。或いは、植木等のように♬わかっちゃいるけどやめられない♬のかもしれない。男は独欲であり、女は孤欲にかられる。
 孤独感、というより、都市空間に生きるヒトの物哀し観がカーウァイには満載である。心の結びつきが得れないから相手に寄り添おうとして、距離をなくすため相手の気持ちになりきろうとする時間、しかし“その時”は距離感を埋めようとはさせない。欲望は光となり都市を照らしだす。『天使の涙』の金城と父親あるいは金城と斎藤さん、『花様年華』のマギー・チェンと彼女の上司あるいはレベッカ・パンとの関係性にはなにげなさに温かさを生むぶん、男女のキョリの持ち方は都市という哀しさを浮き彫りにさせる。ヒカリやネオンは明るさだけではなく哀しさも描きだす。
 『欲望の翼』のレスリー・チャンはモロにナルシストのいでたちであり、その開き直りがかえって艶姿となり作品の音楽の在り方などもあり気にならないが、カーウァイのほとんどの登場人物たちの告白的なモノローグ、彼らに「19○○年〇月〇日、ぼくは○○をした」と言われても、ヒトのナルシズムを延々と聴かされてもしょうがない感があって時にはついていけないときがあるのだけれど、カーウァイのテクストを物哀しさの軌跡と捉え想うとき、その時間はカーウァイのアサンブラージュな絵づくり音づくり、心地よさへと都市空間に導かれているのだと気付かせられる。


リー・カンションに様々な人物を演じさせながらも一貫性を与え、その人物の成長譚を表しているミンリャンであるが、それに対し、カーウァイはスターを起用しスター映画としてジャンルものを生み出し、そのぶん、夢物語観が強く打ち出されている。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2019年10月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

最近の日記

もっと見る