mixiユーザー(id:2312860)

2019年09月22日15:47

147 view

「論理」と「感銘」−死霊(01)

「論理」と「感銘」−−あるいは「理性=reason」と「情念(感情・情緒=passion)」について

「一種ひねくれた論理癖が私にある。胸を敲つ一つの感銘よりも思考をそそる一つの発想を好む馬鹿げた性癖である。極端にいえば、私にとって凡てのものがひややかな抽象名詞に見える。勿論、そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起ることを私は知っている。水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描きだす音楽的な美しさを私は知っている。にもかかわらず、私は出来得べくんば一つの巨大な単音、一つの凝集体、一つの発想のみを求める。もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して、しかもその一語をきっぱり叫び得たとしたら−−そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら、こんなにだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう。」

埴谷雄高『死霊』(講談社・1976年)「自序」より

.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・

三連休で本を少し整理しようと思っていたら、本の山の中から、昔、古本屋で400円で買った『死霊』が出てきた。「日本文学大賞」を受賞し、帯の宣伝文句には「二十世紀の闇に光芒を放つわが国初の形而上小説」などと書かれた大作だ。長らく手を着けられず埋もれていたが、読み始めると止まらず、その第一章を一気に読んでしまった。
というわけで、本の整理は進んでいない(笑)。

先日、元大学教授の先生を囲んだ読書会で、次のような会話をした。

先生「やはり感情論・情緒論をもっとやらなければならないと思います。」
僕「デイビッド・ヒュームの情念論は参考になりませんか?」
先生「ヒュームは概念規定が不十分であり、使えないと思います。」
僕「現実の社会、とくに政治は、情念的なもので動いてように感じています。」
先生「しかし、理念が現実を動かすことは否定できないですよね。」

この先生に対して、どのような反論が可能だろうか?
読書会からの帰り道で、次のような理屈を考えてみた。
「さまざまな理念がありますが、そうした諸理念の中から行動の導き手としてどれを選ばかは、非理性的なもの、情念的なものではないでしょうか。」

この考え方は、ヒュームの次の言葉に依拠している。

「理性は情念の奴隷であり、また、それにすぎないものであるべきであって、理性は、情念に仕え、従う以外に、何の役目もあえて望むことはけっして許されないのである。」
ヒューム『人性論(三)』(大槻春彦訳・岩波文庫・年)p.205〜206

この言葉は、功利主義の根底にある考え方として、ケインズによって「自由放任の終焉」にも引用されている。
「理性」には「永遠性、無変動性、神的起源」があるとされ、「情念」には「盲目性、非恒常性、欺瞞性」があると言われてきたことは、ヒューム自身が認めている。しかしヒュームによれば、それでも理性には「いかなる行動を産むことも、換言すれば意欲を生起させることも、決してできない」のであり、情念こそ「根源的な存在」なのである。

冒頭の埴谷の言葉に戻る。
埴谷が、自身の論理的な傾向を「癖」と呼んでいるところが面白いと思った。
論理を好む人は、論理にこだわり、論理の外に出ないことが多い。
しかし、行動や言語的な表現が論理的であるか感情的であるかの違いは、その人の個性、傾向、性向のようなものであり、ひらたく言えば「癖(くせ・へき)」とも呼べるかも知れない。

「永遠性」のある理性を、人は「盲目的」に信じることがある。「無変動的」な論理を信奉する人間の心は、非恒常的であったりする。理念の「神的起源」は、人間がでっち上げた「欺瞞」かも知れない。このような考え方は、懐疑的に過ぎるだろうか。

あるいは、ヘーゲルのように、「盲目的、非恒常的、欺瞞的」なものも含めて、「精神」の「現象」と認めて、それらを理念と調和させるような思想こそが、成熟したものと言えるのかも知れない。

◆「全世界の破滅」か「指のかすり傷」か?(2007年08月11日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=527114804&owner_id=2312860

3 1

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する