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2019年09月14日21:51

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「存在と無」から九鬼周造へ


「あらゆる人間存在は、彼が、存在を根拠づけるために、また同時に、それ自身の根拠であることによって偶然性から脱れ出ているような即自すなわち宗教では神と名づけられている自己原因者(自己原因的存在者)を、構成するために、あえて自己を失うことを企てるという点で、一つの受難である。それゆえ、人間の受難は、キリストの受難の逆である。なぜなら、人間は、神を生まれさせるために、人間としてのかぎりでは自己を失うからである。けれども、神の観念は矛盾している。われわれはむなしく自己を失なう。人間は一つの無益な受難である。」

サルトル『存在と無』松浪信三郎訳
サルトル全集第20巻(人文書院・1960年)p.405〜406
第III巻(ちくま学芸文庫・2008年)p.463

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とある大学で参加自由な読書会があり、サルトルの『存在と無』を採り上げていた。
というわけで、何年かぶりに『存在と無』を読んでみている。
この哲学書を最初に読んだのは、高校2年生の頃だと思う。当時の感想としては、サルトルは分かりやすく面白いと思っていた。『実存主義とは何か』という手軽な入門書があり、松浪信三郎による『実存主義』(岩波新書)のような解説書があり、それらを経由して挑戦すると、意外と「分かったつもり」になれる本だった。
「人間は自由の刑に処せられている」などという、高校生くらいの読者を酔わせるような挑発的なフレーズもあり、引き込まれるところがあった。

30年以上が経ち、その後の僕は、ハイデガーや九鬼周造を読んだ。
そうして読んでみると、サルトルが勢いにまかせて書いている中で、さまざまな論点をスッ飛ばしているような感じが所々に見られた。サルトルの論理には、彼なりの偏りがあるようにも思われた。

パスカル、キルケゴール、ヤスパースなど、実存主義の起源にはキリスト教の伝統に根差したところがある。それに対してサルトルは、無神論的な実存主義を自称している。サルトルは、神が存在するかどうかはどうでもよいことだということも言っている。僕は、この言葉を文字通りに受け取って、サルトルの哲学は神を信じていなくても理解できるものだという程度に考えていた。

しかし、この考え方は、少し甘かったかも知れない。
ニーチェは「神は死んだ」と言ったそうだが、彼らにとって「神」はわざわざ「死んだ」と宣告しなければならないもの、単に「信じない」だけではなく「否定」しなければならないものだった。サルトルにとっても、あえて「無神論的」と言わなければならない理由・根拠があったように思われてきた。

神が存在すれば、「原因」「根拠」「必然性」と言ったものが、無条件に肯定される。
人は、「偶然性」という不安定なものに惑わされる必要が無くなる。
しかし、ひとたび「神」を否定してしまうと、人は偶然性から逃れるためには、自ら「自由」を引き受け、「原因」とならなければならなくなる。

高校時代の僕は、「人間は一つの無益な受難である」という言葉を読んで、人生に目的は無く(無益であり)、生きることは苦しい(受難である)。という程度の意味に読んでいた。それは、カミュの「シーシュポスの神話」と重なるものであった。
しかし、サルトルの言う「受難」の意味は、キリストの受難の意味を知らなければ理解の出来ないものなのかも知れない。「無益」であるということも、信仰や恩寵というものを理解しなければ、真の意味を知ることが出来ないのかも知れない。

そして、僕のようにキリスト教的な伝統に直接は関わらない者にとっては、サルトルが論じた「原因」や「必然性」といった問題にこだわることなく、安らかに「偶然性」に身をゆだねてもよいのかも知れない。

それは、九鬼周造の実存主義にアプローチしてみることだ。

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