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2019年09月08日13:56

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九鬼周造の自殺論

「人間は死の自然の到来を待たないでみずから生よりも死を択ぶこともある。だが、もし死後に何等かの形で生の存続があるとしたなら自殺は無意味なものとなってしまう。自暴自棄の自殺でさえも、責任逃避の自殺さえも、自殺と言う現象は否むべからざる厳粛性を担っている。その厳粛性は生か死かという選択が肯定か否定かの選択として本当に成立することを予想している。死後にまたしても生があるというのでは生か死か肯定か否定かの選択ではないことになってしまう。私には自殺の後に更に来世を押付けるということは自殺行為に対して何か冒涜ででもあるかのように感じられる。情死者が死の彼岸に楽しい来世を描くというような場合があるとしても、それは全く無邪気な妄想に過ぎないであろう。情死によって人生に対する何等かの反感を力強く明示する事実そのものの中に、情死の目的は完全に達せられている。また何者の介在をも許さずただ二つの心が抱き合って死ぬという瞬間そのものの中に、永遠の天国がある。」

九鬼周造『人間と実存』(岩波文庫・2016年)所収
「人生観」p.107〜108より

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九鬼の著作を読んでいて、僕が考えはじめていたことの多くが、より明晰かつ的確な形で表現されていることを知った。「徒然草」の「見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業なる」(第13段)ではないが、このような著作・著者と時を隔ててでも巡り合えるということは本当に幸せなことだ。

特に、この自殺論は素晴らしいと感じた。
九鬼は、我が国でも最も早い時期の実存主義者ということになる。しかし、九鬼が学んだ西洋の実存主義者たちは、自殺についてあまり積極的には論じていない。これには、やはり自殺を禁忌としたキリスト教の伝統の影響があるような気がする。それに対して、九鬼が「人生観」の中で自殺について積極的かつ肯定的に論じたことは、やはり日本人的な生死観に影響されたところがあるように思われる。自殺の中で特に「情死」を取り上げていることも、江戸期の日本文学の脈絡によるところがあるだろう。

九鬼は、人生観(=世界観)の問題として、次の3点を挙げる。

(1)霊魂不滅(死)
(2)意志自由(実存性)
(3)神(共同的世界内存在)

九鬼は第一の問題に関連して「私自身は来世の存在を信じない」と言い、自殺について論じる。
自殺という行為に、冒涜すべからぬ厳粛性を認める。しかも、その厳粛性は「自暴自棄の自殺」や「責任逃避の自殺」にもあるのだと言う。これは、かなり積極的な自殺論だ。

九鬼のロジックは、この自殺の「厳粛性」を擁護したいがために、「来世」や「霊魂不滅」までも否定しているように読める。しかし、これはロジックとしては本末転倒であろう。自殺用語は価値観の問題であり、来世や霊魂不滅は事実(認識)問題だ。前者から後者を導くことは、論理として認められるだろうか。

しかし、こうした本末転倒も含めて、九鬼の論理は面白いと思う。

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