スマホはもちろん携帯電話もインターネットもなかった頃。筆者たちはシステム手帳なるものを携帯していた。アドレス帳はもちろんスケジュール帳があり、そして、ちょっとしたアイディアを書き留めるメモ帳があり、地下鉄乗り換えマップや東京の主要駅のマップなども付いていた。単行本一冊分ぐらいの大きさで、最近の軽量化されたモバイルパソコンなどよりも、よほど重かった。
その男は、そんな重いものを二冊も持っていた。一冊は筆者たちと同じ仕事と遊び用なのだが、もう一冊が凄かった。グルメ用だったのだ。
彼は美味しいと聞くと、必ずそれをメモする。電話など分かっていればそこまでメモするが分かっていなければ、駅からの道のりの情報や店名などをメモしておき、自らその店を探しに行っていたらしいのだ。そして、それをシステム手帳に情報として残しおくのだ。常連となる店、近くにいるなら訪れる店、二度と行かない店に分けてあり、さらにジャンル別にも情報は整理されていた。その上で、未発見の店。噂だけの店などの情報もあった。
「これ一冊でたいていの女は口説けるんだよ」
彼はそう言ってスマートに笑ったものだった。そんなたいそうなものがなくても、十分にモテるタイプだと筆者は思った。スタイリッシュで会話が知性的で、顔がいいのに、常に周囲を笑わせるセンスもあった。もし彼がエロ雑誌を作ったら、かなり売れたのではないだろうか、と、筆者は今でもそう思っている。エロ雑誌はモテない男が作るものという考えは筆者のポリシーである。しかし、彼ぐらいモテてしまえば、例外になってしまうのだ。
「もう、都内近県の主な店は行き尽くしたでしょう。まあ、超高級店は別として、そこそこの値段で食える美味しい物なんて、そんなに多いわけじゃないから」
と、彼に言った。
「そうだな。だから、今度は、普段はあまり食べない物を食べて行こうかと思っているんだよ。イルカとか犬とかカエルとかね」
「ゲテモノは大丈夫なの」
「ダメだよ。嫌いだよ。でも、探求心には勝てないんだよ」
彼が作っていたのは教育関連書籍だった。ビジネスマナーの本などでは、けっこうヒット商品も作っていた。探求心旺盛であることが有利とは思えないような書籍だった。
「君らはさあ。いい女と寝たいわけだろう。私は違うんだよ。いろいろな女と寝たいんだよ。美人が自分の下で悶えるのもいいけど、ブスが深情けで私を感じさせようと必死になっている姿もいいんだよ。それを考えたらさ。ゲテモノと言われる物の中にも美味しい物があるかもしれないだろう。いや、不味いと言われる物だって、何かのきっかけで美味しくなるというのもあるものだろう。食わず嫌いの人間。私はそうした平凡な人間が大嫌いなんだよ」
その頃、筆者には食べられない物が多くあった。今はない。その頃の筆者には、経験したくない性が多くあった。今は少ない。その頃の筆者は女を選んでいた。しかし、女には選ばれなかった。それは今も同じだ。女の選択権は今も昔も筆者になかったが、食べ物と性のタブーはなくなった。彼の影響だったのだ。
分厚く重いシステム手帳。今は、それその物が懐かしい。
彼は筆者に、ある女と一緒に遊ぼうと誘って来たことがあった。システム手帳に挟まれていたその女は、とんでもない美人だった。筆者はそれがいつになるのかとワクワクして待っていた。いや、待っているのだ。三十年が過ぎた今も、待っているのだ。もう、その彼がどこにいるのかも分からないのだが。
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