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2018年12月03日00:19

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歴史之雑談帖(その218)―臥薪嘗胆の現物

某日本経済新聞の最終頁は、昔から文化欄となっていて、有名な『私の履歴書』もこの面に掲載されて居ります。日曜日には、『遊遊漢字学』というエッセイが連載されていて、漢字の世界の奥深さが色々書かれていて、欠かさず読む様にしています。昨日の掲載分には、へえと吃驚したのでちょっとご紹介。

<引用開始>

今に伝わる「臥薪嘗胆」の剣  阿辻哲次


中国の戦国時代、長江下流域にあった呉と越の両国は境を接し、ライバルとして死闘を繰り返した。紀元前五世紀初頭に、越の王であった勾践(こうせん)が兵を進め、呉王闔閭(こうりょ)を戦死させた。闔閭の子であった夫差(ふさ)は、父の仇(かたき)を忘れまいとして薪の上で寝る苦行をしながら軍備をととのえ、二年後に宿敵越を攻めた。包囲された勾践は和議を乞うて、命からがら逃げ帰り、それからは毎日苦い肝を嘗(な)めては屈辱を思い出し、やがて呉に攻めこんで積年の恨みを晴らした。この血で血を洗うような復讐(ふくしゅう)物語を「臥薪(がしん)嘗胆(しょうたん)」という。

一九六五年に湖北省のある墓から、一振りの銅剣が発見された。長さ約五十六センチの剣は、墓の中でも鮮やかな光を放っており、鍔(つば)の近くには鳥を図案化した装飾的な字体で、「越王勾践、自作用剣」と銘文が記されていた。すなわち「臥薪嘗胆」の物語に登場する越王勾践が実際に作らせたものだったのである。

もともと呉や越の地域は名剣の生産地で、名剣にまつわる話が多く伝えられている。剣作りの名匠として越には欧冶子(おうやし)、呉には莫邪(ばくや)と干将(かんしょう)という夫婦がいたといわれ、いまは大観光地としてにぎわう蘇州の名園「虎丘(こきゅう)」にある「試剣石」は、莫邪らが作った剣の切れ味を試したものであるという。またその庭園の名前を虎丘というのも、一説によれば、そこにあった闔閭の墓に名剣三千本が埋められているとの話を聞いた始皇帝が、墓をあばいて剣を取り出そうとしたところ、虎が出てきて始皇帝を妨害したとの伝説から命名されたという。

ところで勾践は紀元前四六五年に没したとされるから、だいたい二千五百年ほど前の人である。中国ではその時代に生きていた人の事績がかなり詳しくわかり、ほかにもエジプトやギリシャ・ローマ、それにペルシャやインドなどは同様であるが、その他の国や地域では、日本を含めて当時の人はほとんど誰一人として、名前すら知られない。

中国ではそんな時代の人物が実際に使っていた道具が、土の中から完全な形で出現する。よく考えれば、まことに驚くべき話なのである。

<引用終了>

出典Web:https://www.nikkei.com/paper/article/?b=20181202&ng=DGKKZO38374770Q8A131C1BC8000

わたくしはぢぢいの癖に物知らずなので、越王句践が実際に作らせた剣が出土していたとは知りませんでした。臥薪嘗胆の故事は昔々の高校時代、漢文の授業で習った事を覚えていますが、その故事の当事者が拵えた剣が今日迄伝わっているとは。ちょっと調べてみると、呉王夫差の作った矛も今日伝わっているそうで、おやおやと思った次第。

日本も色々と古代の遺物が残されては居りますが、流石に兵馬俑がゴロゴロ出て来るだけの事はあるなあ、と大いに感心した次第でありました。

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