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2018年09月25日23:02

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酔いどれ天使


『酔いどれ天使』
ミフネの名を挙げた作品であるが、ツキに見放された男の孤独感という印象が強く、運命の翻弄され的なものも誰かによって恣意的にされた観もなく彼の悲劇性にあまり同一化できずとなる。また、のちに出てくる任侠ものや実録ものその他もろもろと違いヤクザにも複雑なしがらみがあることも表さず、徹底的に社会悪に表すことを前提としたもの、この作品の後々に現れ出でたる世代の私としては、なんだかギャクにジェームズキャクニ―に、ヤクザをシンプルに悪とするステレオタイプに違和感を覚えもする。しかしながら、クロサワを考えるのであれば、ヤクザは徹底的に社会悪として常に描くのであり、当時としても黒澤的にもそのこと至極当然なのであろう。彼の立場を明確にしている。ワルはワルでしかない。そうしたドロ沼な社会は人々が這い上がる底辺社会であるという以上に、主人公の医師が言うところの「封建」の社会なのであり、『悪い奴ほどよく眠る』の政治家たち、或いは『七人の侍』の盗賊たちに表されるような、民をくいものにするワルがのさばる場所だ。戦後そうした社会から逃れ自由を得らんがしようとしていても、世の中は変わらずに在る。自由の世を欲する医師はそのことを批判するのであり、松永というヤクザはいっけん自由の証のようなクールさ表していても実は頓挫を代理する存在として在る。クロサワのシンパシーは自由を得たいとしても得られない百姓菊千代に対すると同じように、松永にも向けられているのである。 

ミフネが花のにおいをかぐところ、ココロとカラダの再生の兆しを見せ、その後に訪れるであろう悲劇を予知すれば、愛おしくも思えるものはある。この作品における悪魔のような、死神のような、そして愛おしさも表す野生的なマスキュリンはきっと当時的に大衆にセックスアピールしたのであろう。彼に対する志村僑の天使は、酔いどれクマのプーさん的な魅力をそのヘッという声とともに愛着あるもの生んでいる。ふたりが喋る言葉はジョンベルーシが喋る日本語のように時にはつかみきれないことあるけれど、それもまたクロサワらしいリアリズムである。

イタリアのそれとは違った、黒澤らしいネオリアリズムである。フィクションに浮かび上がる真実性、それがクロサワのあまりにも映画的なリアルなのである。浜辺を走るミフネのシーンがやはり素晴らしかった。この作品はテク的なものでやはり注目してしまう。泥臭いもの表されど、人々が犇めき合う街はイマヘイやワカマツが表すものほどリアルでなく、どこにもないようなあまりにも映画的な空間である。ロケがはやる前のスタジオ内撮影であるのだから当たり前であるが、それもまた黒澤のテクの大きな要素である。画家である彼の見るリアルが描き出される。それは映画的伝統にものっとている。ムルナウな表現主義や嘆きの天使スタンバーグのシニシズムが村山知義からのシャシンのミームに交じり合い、映画芸術の金字塔を『酔いどれ天使』に築き上げる。
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