『女のみづうみ』
イメージというものが浮かび上がる。劇中に表される太陽族映画は、それを深める。そしてエンディングも。
おだまりっ!オカマリよっ、おほほほほほほ。綺麗と言わしめられる岡田茉莉子、彼女のスティルを見ても、なぜか今までエロティックなものを感じなかったけれど、キジューのこの作品を観て思ったのは、彼女のフォトジェニーは何か彫刻のようであるからか、いや、彫刻のようなものであれば、ヴィーナスなどのように時にはセクシャリティーを感じるはずであるけれど何故か、と思ったら、彼女には生活感や生活臭があまりにも感じられないからか、と、その理由が分かる。
夫婦関係においてマッタリとすることなく、羽仁進が左幸子のエロスを引き出すように、吉田喜重もまた、違う感覚であるが、オカマリの魅力を彼のテクストに合わせるが如きに引き出している。
みづうみ、女性はつねに潤いを求めているもの、されど、その意に反し、物事は乾ききる。キジューのタッチはその乾きを著しせしめる。キジューによく言われる観念的なもの、この作品に多分に出ているけれど、勅使河原宏のモーション℃はなく、ドライで、同じジャポンにも関わらず、レネやアントニオーニよりも遠い感覚、なのに、親しみがあるセンス。
『彼女と彼』のいきなりのエンディングは幾分、後味の悪さが残るが、この作品でのいきなりに感じられるエンディングは何か、深遠なるもので顕される。
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