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2018年09月12日23:20

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暴力的にまで強引にみる日本戦後映画史


天命反転意味のメカニック。バランスは己で意外を知るもの。世界は変わる。インテリであれパワフルであれ、マスムラであれイマヘイであれ、ヤミ市的エナジェティック生き様が表される。野村芳太郎(b19)、岡本喜八(b24)、増村保造(b 24)、石井輝男(b24)といった、ジローズも歌わなかった戦争を知っている大人たちは、戦中戦後日本国家を批判的考察するよりもなにより、それよりも前にまずは喰っていかなきゃならない、そのヤミ市的エナジーを爆発させる。美味しさはヤッミー。パワーそのものはやがて来る悲観も運動もぶっ飛ばすぐらいのヒューマンをまずは捉え表すのである。そう考えるのなら、マスムラがカツシンと組んだ兵隊ヤクザはとてもありえる作品なのである。カツシンと組んだテシガワラの燃えつきた地図、猫ふんじゃった、ラストに遂には起こる。テシガワラ以降の人々、オオシマであれキジュウであれ、エンペラー/父性/国家の批判であれアイデンティティの不確かであれ、ナニナニの名のもとにとして表されながらも儚さを憂う観念性が表される。勅使河原宏(b27)、羽仁進(b28)、黒木和雄(b30)、篠田正浩(b31)、大島渚(b32)、松本俊夫(b32)、と、戦中教育と戦後モラルに引き裂かれ惑わされアタマんなかハイキーにらりって怒れる若者たちは、悲観的にも捉えられる日本を悲観的に表しながらも、カルチャーってる街をリサーチし新しい時代のテクノロジーに歓喜しながら使いまくりナニナニをコノテーションさせ、その表現自体で不毛を切り裂こうとする。安部公房の後に手を組んだパートナーがフーテンの赤瀬川だということ納得できるテシガワラ宏なのである。ポリティクスなのではなく、世界はいつも常にアートなのである。天命反転に世界が在る。20~30年代生まれの彼らと違いながらも天命反転、宮崎駿(b41)や富野由悠季(b41)と同じようにイデオロギーは水平化し、小栗康平(b45)は『泥の河』(81)『死の棘』(90)で、柳町光男(b45)は『ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR』(76)『さらば愛しき大地』(82)『火まつり』(85)、長谷川和彦(b46)は『青春の殺人者』(76)『太陽を盗んだ男』(79)でムラ社会の破壊を克明に記録し、石井隆(b46)、北野武(b47)、崔洋一(b49)はシティ社会の茶会に眠る泥臭い埋蔵金を掘り起こすことになる。 と暴力的にまで強引にみる日本戦後映画史。





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