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2018年06月13日01:00

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メスを持つ女、その2

 私の処女はつまらない男に奪われた。まさに奪われたのだ。彼は私にこう言ったのだ。
「本当に愛していれば、相手のために死ねるのだ」
 死ねるなら、殺すぐらい、どうということもない、と、私はそう思った。別に私は自殺志願者ではない。自殺するほど、この世に落胆しているわけではなかった。ただ、強く憧れていたのだ。男にやんわりと殺されることを。曾祖父の友人だった医者が愛した女はその最後のときを叶わぬ愛の相手の医者に委ねたのだ。その時、彼女は、麻酔を拒絶した。麻酔を拒絶した理由は、うわ言で、自分の秘密、つまりは、若き日に、その医者と愛し合ったことを漏らすかもしれない、と、そうした理由だった。曾祖父は、そうした彼女を尊敬していたようだった。それは彼の手紙から読み取れた。
 でも、曾祖父もただの男なのだ。彼には分からなかったのだ。
 愛するものが自分の命を絶ってくれるのだ。幸い、彼は医者なのだ。つまり、合法的に命を絶つことの許された人が彼女の最愛の人だったというわけなのだ。どうして、その最後に眠っていられると曾祖父は思ったのだろうか。確かめたい。命の尽きる、その最後の瞬間まで彼の手の震え、息吹、そして、冷酷さを確かめたい、と、女ならそう思うものだ。それが愛されるということなのだ。
 麻酔で眠っている間に殺されるなど許されない。痛みを受け入れ、その甘美な死に酔いしれたいに決まっている。だから彼女は麻酔を拒絶したのだ。そして、医者はその彼女の気持ちに応えたのだ。
 でも、曾祖父のその前の手紙によれば、私のこの理想は少し違っているのかもしれない。彼はこんなふうに書いていた。。
「貴男の決意は立派だ。私は知っている。これまで、貴男が彼女を忘れたことなど一日たりともなかったことを。それでも、貴男は言った。私は愛を捨てて医者となった。私は男ではなく医者なのだ。医者が患者に感情を抱いてどうするというのだ。感情を持たず、ただ、私は目の前の患者の命にメスを入れ、そして、その命を救う。それだけだ。貴男は凄い。あの彼女の結婚式の朝。貴男は医者になったのだ。それは資格の問題ではない。医者という覚悟を貴男は持ったのだ。そして、それを貫いたのだ。あの最後の時まで」
 結果、その医者は愛する女にメスを入れた。彼がその命を絶つためにメスを入れたのか、それとも、曾祖父の思う通り、医者として彼女の命を救うためにメス入れたのかは分からない。
 私の処女は痛みによって喪失された。痛みはいい。問題は痛みではなく、その間に、私の上で囁く意味不明で少しの覚悟も重みもない言葉のほうだった。愛しているとか、大事にするだとか、幸せだとか、そんな幻想に満足して、それを口にする男が私は許せなかった。
 だから、私は、枕元に隠し持っていたナイフを取り出して、彼に手渡したのだ。これで私の胸を割いて、そして、その中にある本当の私を見て、と、そう言ったのだ。文房具のナイフで人など斬れない。血は出るかもしれないが、命には届かない。そんなことも分からずに男は慌てて、そして、気味の悪いものでも見るように私を見下ろしたのだ。
 つまらない男だった。子宮のそばにあった痛みほどの価値のない男だった。
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