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2018年05月14日22:14

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無常の歌−定家(01)

「無常
88 ながめてもさだめなき世のかなしきは時雨にくもるありあけの空
89 水のうへに思(おもひ)なすこそはかなけれやがて消(きゆ)るをあわと見ながら」

「88 じっと眺めていると、有明の月の懸かっていた空は、たちまち時雨に曇ってしまった。このように定めないこの世は悲しい。参考「ひとり寝の涙や空にかよふらむしぐれに曇る有明の付き」(千載・冬・四〇六 忠通)」

「89 結んではすぐ消えてしまうのは泡であると見ながら、それを単に水の上のことであると思おうといるのは、はかない。それは人生そのものなのだ。参考「ここに消えかしこに結ぶ水の泡の憂き世にめぐる身にこそありけれ」(千載・釈教・一二〇二 公任、維摩経十喩、此身如水泡の心)」

久保田淳『藤原定家全歌集(上)』(ちくま学芸文庫・2017年)p.26〜27より

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「定家の数ある秀歌の中でも特によいのは無常を詠った歌だなぁ」
と思った。

しかし、定家の歌が優れているのは、たぶん「無常」の歌に限ったことではなく、それに特に感じ入ってしまうのは、たぶん僕の「心」の側の感受の問題なのだろう(笑)。

88と89は、同じ「無常」の感慨を詠ったものだが、視点が違っている。

88では、素敵な「有明の月」が為す術もなく雨空に変わったことによせて、「定め無き世の悲しさ」を詠っている。現代風に言い換えれば、「素敵な時間はあっと言う間に終わってしまう」あるいは「素敵な時間にも終わりというものがある」ことの残念を詠っているように思われる。

89では、「素敵な時間」「楽しいとき」を含めて、人生の全てを「水の上の泡だ」と見ている。
泡だけが「はかない(儚い)(果敢無い)」のではない。「すべてがはかないのだ」と言っているのだと思う。無常観としては、より徹底している。

どちらが好きかと言えば、89の方が好きだ。

それが僕の人生観なのか。本当に、僕がそのような無常観に共感しているのか。その共感が、僕の世界観・価値観・人生観、あるいは「生き方」の奥深いところで呼応しているのかどうかと考えると、簡単には言い切れないところがある。
「はかない」と知りつつ、熱心に努めたり熱中することもある。

◆藤原定家に関する日記
・藤原定家全歌集(2017年10月28日)
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・年季−『定家八代抄(下)』(岩波文庫)(2014年11月06日)
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◆和歌・歌集・歌人に関する日記の目次
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